わかっていないという尊さ
5月6日(日)
管長様が土日坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
「あの人は(ものが)見えている」とか「あの人は
(ものが)わかっている」とかよく言いますが、果たして
見えている・わかっているのが良くて、見えていない
わかっていないことが悪いことなのでしょうか?
よくいかにもわかったように説明する人がいますが、
本当にわかったというのがわかっているのでしょうか?
皆さん、もし「私は大宇宙のことをすべてわかりました。
究めました。」という人がいたらどう思いますか?
まず、その人はあやしいし、科学的に良識のある人とは
思えないでしょう。逆に「宇宙の最先端を学べば学ぶほど
わからなくなる」という人の方が頼りになるのであります。
原因と結果の道理は複雑に入り組んでいて学べば学ぶほど
わからないということに気づかされるのであります。
仏心の世界も同じで、我々は仏心のことをわかりようがない
のであります。仏心の世界も坐れば坐るほどわからないと
気づくのであります。けれども、確かなことは、たとえ
わからなくても、私達は仏心の中に生かされているという
ことであります。
我々が見たり聞いたりしてわかっていることは、ほんの
極一部、小さな世界であります。おおよそ、自分にとって
都合の良いものしか見ていないのであります。そんな程度の
目で見て、耳で聞いて自分の都合の良いように解釈を
しいているにすぎません。それでどうして広い仏心といものが
わかるでしょうか?
修行をして気づくことは「ああ、今まで私は何にも見えて
いなかった、何にもわかっていなかった」ということであります。
達磨様から六代目の慧能禅師は、「我仏法を得せず
(私には仏法のことはわからない)」と仰せになっています。
円覚寺の堯道老師は「瞎漢というはまことの活眼である
(見えない、わからないと気づくことが本当にすぐれた眼力
である)」とおおせになっています。
見えていない、わかっていないという尊さであります。