気がつくということ
2月1日(水)その2
管長様が本日の淡青坐禅会で提唱されたことをまとめてみました。
「無門関」と言いますから入り口がないのであります。それは、
とりもなおさず、私達はみなその中にあるということであります。
禪の修行は、田舎からはるばる出かけて都に到達するのではない
とよく言われています。都大路の真ん真ん中にいて道に迷った人が
「ああ!ここが都であった!」と気がつくことが禪の悟りであります。
初級からはじまって一段、2段・・・と階梯を経て悟りに到達する
のではなく、また田舎からてくてくと歩いて都に到るのでもありません。
はじめから都大路の真ん真ん中に自分はいる!と気づくことです。
都大路とは、仏心・涅槃心・仏様の心のことであります。私達は
はじめから仏様の心の中で命をいただいて、生き、そして息を
引き取るのであります。
その中に ありとも知らず 晴れ渡る
空にいだかれ 雲の遊べる
白い雲が広い大空の中を自分ではそのことに気がつかずに
一時、ゆったり浮かんでいる。我々も自分では気がつかない
うちに仏心の中に生まれ、その中に生き、そして息を引き取る。
みんなその中にいると気がつくかどうか?であります。
水の中にいて「ああ!のどが渇いた!」と騒いでいたんだと
気がつくかどうかであります。
気がつくを目覚めるといいます。お釈迦様はそのことに
気がついた・目覚めた人であります。
(後記)
今日は風は強かったのですが、空と雲がきれいでした!