しじみ和尚
1月26日(木)制末攝心最終日
管長様が本日の僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
(なお、本日は講了といいまして、雪安居{10月から1月の攝心の
ある期間}最期の提唱となります。そこで講了にあたって
管長様の偈です。)
「洞山の真子 俗に混じて融ず
蜆を摝し 蝦をろうして 以て腹に充つ
神前の酒盤を撃砕し去れば
今に到って 眠り熟す 紙銭の中」
曹洞宗の祖である洞山良价禅師の法を受け継いだ
お弟子に蜆子和尚と呼ばれる人がいました。別段、大きな
寺に入るわけでもなく、大勢の雲水を・弟子を指導するわけでも
なく、俗世間の人達の中に入り、すっかりとけ込んで、
飄々とご自身の境涯を過ごされた方であります。
しじみやエビを川でとってお腹を充たしておりましたので
「しじみ和尚」と呼ばれるようになりました。「飢え来たれば
飯を喫し、困じ来たれば睡る」とう言葉があります。自分で
食べるものは自分でとって暮らす生き方が一番自然であります。
動物も自分でとって食べて、あとは寝ている。それが一番自然と
いえば一番自然であり、そこに余計な理屈はありません。
しじみ和尚さんは神社の祠をねぐらとしておりました。祠の
中には、ご祈祷・お供え用の紙で作った「紙銭」がたくさん
積んであり、その中で寝ていました。
ある和尚さんがしじみ和尚が本物かどうか試してやろうと
寝床である紙銭の中に隠れてしじみ和尚が帰ってくるのを
待ちかまえていました。帰ってくると、突然紙銭の中から
飛び出して、しじみ和尚にこう問いかけました。
「あなたの禪とはいったい何であるか?」
しじみ和尚は即座に答えました。
「今そこにお供えしてある御神酒じゃ!」と。
神前の祠の中ですから、二人の前には御神酒が
お供えしてありました。
このはたらきは見事でありますが、かといって御神酒が
禪であるととらわれてもいけない。そこをぶち壊してはじめて
禪であります。
そうして見てみると、遠い昔のことではない今に到るまで
紙銭の寝床でグッスリ眠りこけているではないかといこと
であります。
しじみ和尚の人生、これもまた一つの禪の姿であります。
ただ、なにもせず、あちらこちら、ぶらぶらあるいているだけだと
言う人もいるかもしれません。しかし、大きな目で見れば
人間の真実というのは生まれてきてからは、自分で自分の
食べるものをとって食べて、後は死ぬまでの間、あちらこちら
ぶらぶらして過ぎしているだけではありませんか。
しじみ和尚のような人が伝記として残されている。これが
禪の懐の広いところであります。「各々因縁あり」であります。
それを縁として、それぞれの立場でそれぞれの己の本分を
尽くしていくことが修行であります。どこにいっても、私達に
とっては修行であります。
何事も修行と思いする人は
身のわざわい消えはつるなり