どうにもならないもの
9月18日(日)その3
管長様が昨日土曜坐禅会で提唱したことをまとめてみました。
お釈迦様は、一番信頼をしていた自分の弟子、舎利弗と目連を自分より
先に亡くしています。とりわけ、目連尊者は殴られ蹴らるなどの暴行を受け
最期は体の姿形がわからなくなるほどになって亡くなりました。それをきいて
お釈迦様は、「目連ほど修行をした人でもそういう目にあわなければならない。
いくら修行をしても、乗り越えることのできないものは業の力である。
これだけは、いかんともしがたいものである。」と涙を流されたそうです。
業だからあきらめなければならないと単純にすり替えれることは誤解を
うみ難しいのだけれど、人間の力ではどうすることもできないものがあるので
あります。そして、それは残念ですが受け止めていくしかないのであります。
お釈迦様でも、あらゆる人の病気や災難を全部救うことはできません。
どうにもならないところを見据えて、そこに涙を流して受け止めていくところから
本当の宗教が始まるのであります。
いくら修行をしたとしても、人間にはどうにもならないものが残るんです。そういう
どうにもならないものを残しているからこそ、周りの人の苦しみというものが
本当に親身に受け止めてあげることができるのであります。
どうにもならないことをかかえて生きているからこそ、人の苦しみを
「ああ、なるほどあなたもそうか」とわが苦しみとして受け止めて寄り添う
慈悲のはたらきが出てくるのであります。