混沌
6月26日(日)
管長様が先日僧堂攝心で提唱されたことをまとめてみました。
中国の「荘子」の中のお話です。昔、「混沌」という神様がいて
その顔は、のっぺらぼうで目も耳も鼻も口もありませんでした。
それを気の毒に思った他の神様が一日に一つずつ、目を耳を・・・
というふうに穴をあけていったら、7日目(目2+耳2+鼻2+口1計7つ)
に死んでしまったという有名な話があります。気の毒だと思って、
しかしながら、余計なことをしたために混沌は死んでしまったので
あります。
混沌は、無分別、分けて考えないこと。大自然そのもの、大自然の
真の純朴さの姿であります。自然と人とが一つになっていた世界、
禪の言葉で言えば「無分暁(むふんぎょう)」
つまり、「さっぱり、わからない!」ということであります。
仏の智慧は、実は無分暁!
わかる!というのはむしろ浅く逆にわからない!というのが
実は尊い。
最近、アマゾンの奥でまだ文明にふれたことのない民族が
見つかったという記事が出ていました。また、別の本で、全く文明
にふれていないそれこそ大自然の中で、森に生まれ、森を食べ、
そして最後に森に食べられていくというような全くの自然の
暮らしをしている部族のことを読んだ。
そこには、自然に生きる知恵が随所にある。お日様とともに起き、働き
日が沈むと休む。それでいてきちっと統制がとれている。森の精霊と
対話ができるという長老の一言が、全部を決する。森の精霊から
「もう、獲物をとるな!」と聞けば、獲らないからとりすぎることがない。
そんな村だったが、政府が治療や保護という名目で村人を町へ連れて行くうちに
文明にふれて、悲しいかなその村は崩壊をしてしまった。
町に行って言葉を学んだものたちは、今まで長老の一言ですんだものが
反論するようになる。いよいよ長老が亡くなるときには次のことを言って
息を引き取った。「精霊がいなくなった!精霊がきえた!」と。
私達がアマゾンの暮らしに戻ることはもちろんできないが
そういうところから何を学んでいくのか?
真の智慧とはいったい何であるのか?
反省すべき時にある。
(後記)おかげさまで、ブログが更新できるまで
快復致しました。療養中、たくさんのお見舞いの
コメントをいただき、誠に励みとなりました。
有り難うございました。