一遍上人の念仏
一遍上人は、念仏札を多くの人たちに配って、紀州を遍歴していた時のことです。
旅路で出会った一人の僧に念仏札を受けるように勧めたところ、
自分は信心が起こらないので受け取れないと拒否されました。
そこで一遍上人は熊野本宮証誠殿参籠して、
熊野権現の啓示を受けられました。
それが「念仏を進める聖よ、どうして念仏を間違えて勧めているのか。
あなたの勧めによって、すべての人々がはじめて往生するのではない。
南無阿弥陀仏ととなえることによって、
すべての人々が極楽浄土に往生することは、
阿弥陀仏が十劫という遠い昔、
正しいさとりを得たときに決定しているのである。
信心があろうとなかろうと、
心が浄らかであろうとなかろうと、
人を選ぶことなくその札を配るべきである。」と言われたのです。
これが一遍上人の教えの根幹であります。
信じようが信じまいが問題にしないといのですから、驚くべき教えであります。
柳宗悦氏は、その著『南無阿弥陀仏』のなかで
「法然上人は教える。口に名号を称えよ。汝の往生は契(ちか)われていると。
親鸞上人はいう、本願を信ぜよ。その時往生は決定されるのであると。
一遍上人は更に説く。既に南無阿弥陀仏に往生が成就されているのである。人の如何に左右されるのでは
ないと。」と説かれています。
法然上人の教えは、お念仏を称えることによって往生するといいます。
親鸞上人の教えは、信じることによって往生すると説かれます。
一遍上人は、信じようが信じまいが、南無阿弥陀仏に往生が確定しているというのです。
更に柳氏は、法然上人、親鸞上人、一遍上人の三師の念仏を次のように比較されいてます。
「浄土宗では、身命を阿弥陀に捧げる意。
真宗では、阿弥陀の勅命に順う。
時宗では、阿弥陀の命根に還る意。」として、説かれ
続けて、「一は吾らより阿弥陀へ、二は阿弥陀より吾らへ、三は吾らと阿弥陀と未だ分れざる根源へ」と示されています。
一遍上人の念仏は、吾と阿弥陀とが一つになっているところがございます。
それは、一遍上人が法灯国師に参禅した時に詠われたと伝えられる、
「となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」という和歌にもよく表れています。
禅の教えと通じるところであります。
(十一月日曜説教より)
横田南嶺