無字の呼吸
唐代の禅僧である趙州(じょうしゅう)和尚に、ある僧が質問をしました。
犬にも仏の心はありますかと。
すると趙州和尚は、「無」と答えました。
もともとは、何でもない会話であったのでしょう。
趙州和尚にしても、命あるものは皆仏心を具えていると思いこんでいる修行僧の観念を
打破しようとされて、無いと答えたのかもしれません。
しかし、この「無」の一字を、全身全霊をあげて工夫せよと、
宋代の禅では説かれるようになりました。「看話(かんな)禅」とも呼ばれます。
「三百六十の骨節、八万四千の毫竅(ごうきょう)を将(も)って
通身に箇の疑団を起して箇の無の字に参ぜよ」と、
『無門関』を編纂した無門慧開禅師は示されました。
全身まるごとで、この「無」とは何か、疑いのかたまりになって、参じてゆけと説いたのです。
この無字を文字通り、体で工夫します。
腰骨を立てて、下腹に気力を込めて、
吸い込んだ息を下腹におさめて、
下腹をふくらますようにして、
そしてそのふくらませた下腹をそのまま保ったまま、
むしろ前に押し出すように下腹に圧をかけながら、息を長く吐いてゆきます。
その時にただ「むー」と息を吐いてゆくのです。これを繰り返し繰り返し行います。
こんな事が何になるのかと思われるかもしれません。
もっと思想的に究明した方がよいと思われるかもしれません。
しかし、ただ馬鹿になって、こんな単純なことを繰り返すのです。
そこに大きな意味があるのです。やってみないとわからないことでしょう。
そんな世界を坂村真民先生は「鈍刀を磨く」という詩で表現されています。
鈍刀を磨く
鈍刀をいくら磨いても
無駄なことだというが
何もそんなことばに
耳を貸す必要はない
せっせと磨くのだ
刀は光らないかも知れないが
磨く本人が変わってくる
つまり刀がすまぬすまぬと言いながら
磨く本人を
光るものにしてくれるのだ
そこが甚深微妙の世界だ
だからせっせと磨くのだ
この詩と同じような世界であります。
ただひたすら訳も分からずに、全身全霊で「むー、むー」と下腹に圧力をかけて息を吐いていると、
無とは何か、思想的なことが解明されるわけではありませんが、
「むー、むー」と言っているその人が、「無」になってきます。
「無」 になって光り輝いてくるのです。
修行僧でも「無」に成りきった者ほど、清らかな者はありません。
禅の本領でもある「すがすがしさ」や「さわやかさ」というようなものは、
この訳も分からずただひたすら「むー、むー」と一呼吸一呼吸打ち込むことから現れてくるものです。
だから、全身全霊で無字の呼吸をするのです。
{横田南嶺老師 半制大攝心提唱}