「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」
論語の中に「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」という言葉があります。
この言葉もまた、臘八のたび毎に紹介しているものです。
金谷治先生の訳によると「朝(正しい真実の)道を聞けたら、その晩に死んでもよろしい」という意味です。
森信三先生の『一日一語』の十二月二十二日の章に、この言葉を引用して、
「生きた真理というものは、真に己が全生命を賭けるのでなければ、根本的に把握できないという無限の厳しさの前に佇立する想いである。」
と記されています。
たしかに、その道に命を賭けるくらいの意気込みがなければ、何に於いても成就することは困難でしょう。
まして況んや、仏道修行、禅の修行においてはいうまでもありません。
アントニー・デ・メロという神父さんが、
「何もかもなげうって 死さえもいとわないほど 価値のある 宝が見つかったときにこそ
人はほんとうのいみで 生きる」という言葉を残されています。
何の宗教であろうと道を求める心は同じであると思います。
この朝に「道を聞かば・・・」の一語は今北洪川老師の『禅海一瀾』にも引用されています。
洪川老師も、朝聞いたなら、その夕べに死んでもいいというほどの道とは何か、
問い詰めてゆけと仰せになっています。
なかなか、命がけなどということは、めったに出来ることでもありませんが、
こうして臘八の摂心を行いながら、眠たい、足が痛い、疲れたなどとつまらぬ思いにとらわれるくらいならば、
この命を何にかけるかと考えてみると、更なる力が湧いてくるものです。
(平成30年12月2日 横田南嶺老師 臘八大攝心提唱より)