「無になる修行」
円覚寺の開山仏光国師は、十七歳で径山の佛鑑禅師から、無字の公案を与えられて参究しました。
はじめは、一年もすれば何とか片づくと思っていたのですが、それが容易に解決できずに、
二十二歳まで足かけ六年にわたって無の一字に取り組まれたのでした。
私たちの坐禅の修行も、この無になるという一事に尽きます。
しかし、この無になるという単純なことが、実際にやってみると如何に困難なことであるか身にしみるのであります。
無になるとは、捨て去る修行であります。
何かを学んで覚えて得るのではなくて、ひたすら捨ててゆく修行であります。
それは、お釈迦様の御修行にならうからであります。
お釈迦様は、王子の位も捨てられ、財産も捨てられ、名誉も捨てられ、妻子も捨てられました。
更に難行苦行してすべてを捨ててゆかれました。もうこれを取り去ったら人間とは言われないであろうという
最後の最後まで捨て切られました。
もうこれ以上捨てられないという、最後に残るもの、それは何か。
最後に明けの明星をご覧になって気がつかれたのでした。
何かを得る修行ではなく、捨て去る、無になる、ただそれを行じる修行なのであります。
無になってこそ、見えてくる世界なのです。
(平成30年12月3日 横田南嶺老師 臘八大攝心提唱より)