「甘酒のご供養」
この円覚寺の臘八大摂心では、毎晩甘酒が振る舞われます。
これは、毎年もち米と糀(こうじ)とで自分たちで作っているものです。
この頃は甘酒が見直されていますが、実に体も温まり、よしまだ頑張ろうという力にもなるのであります。
実はその甘酒というのは、岩手の雫石(しずくいし)の方から毎年ご供養いただいた糀を使って作っています。
送って下さっていた方というのは、先の戦争で銃弾を受けて片目を失明され、
傷痍軍人として日本に帰って来られました方です。
聞くところによると、何でも、かぶっていた鉄兜に銃弾があたり、
貫通すれば即死でしょうが、兜の中を弾がグルッと一周して外に出たというのです。
命は取り留めましたが、片目が見えなくなり、言葉も忘れてしまったというのでした。
入院中、一生懸命、言葉を覚えることから苦労したそうです。
自ら死ぬことも考えたらしいのですが、ある時病院で両目を失明された方が手探りで階段をはい上がっている姿を見て、
「生きねばならぬ」と思い改めたそうです。
その後傷痍軍人の錬成会で、この円覚寺の朝比奈宗源老師のお話を聞いて感銘を受けて、
円覚寺の僧堂の摂心に通われることとなったようです。
それがこの十二月の臘八の摂心であります。
我々専門に修行してる者でも大変な摂心ですが、それに毎年必ず岩手の雫石から来て参加されました。
ご実家は正直堂という文房具屋さんだったようです。
この正直堂という名前も、朝比奈老師がこの人ならと見込んでおつけになったとうかがっております。
戦後物の無いときに、もう今年は甘酒を造ることは無理かも知れないというときがあったようです。
その時にこの方が、はるばる岩手から糀を送られたのが始まりだそうです。
それ以来毎年必ず送っていただいたのであります。
その方はただ単に参加するだけでなく、実に熱心に坐禅に取り組まれたそうです。
前の管長さまはよく私たちに、あの方ほど熱心に坐った人はいないと言われました。
坐禅のことを禅定(ぜんじよう)とも申します。
そこで坐禅の力を定力(じようりき)と申しますが、あの人ほど定力のある人はいなかったとも言われました。
私どもその話を聞かされる度に、「ヨウシ!負けてなるものか!」と奮起したものです。
又印象に残っている話があります、この方は一週間臘八の摂心を済ませて、
必ずその後山内のお世話になった和尚様方にご挨拶をして、
そうして最後にご自分の帰りの電車賃だけ残して、その余りのお金で居士林で何か無い物、
不足している物がないか探して寄付して行かれたと申します。
人のために施すことが好きな方だったようです。
一般の方が坐禅に見えるのに困ることがないようにと、下駄が壊れていれば新しい下駄を新調し、
雨傘も新調したりして、帰りの電車賃以外は皆施しをして、夕方円覚寺を発ち、上野の駅で降りて、ラーメン一杯を食べて、
そのまま夜行列車に乗ってぐっすり眠って帰られたそうです。
家計のやりくりの苦しい中でも毎年欠かすことがなかったそうであります。
私どもはそのご苦労の様子を、毎年聞かせていただきながら、「ヨウシ!頑張らなければ!」と奮起して坐禅いたしました。
毎晩振る舞われる甘酒が、そのお話と相まってなお本当にお腹にしみわたるような思いで頂いたものでした。
それが、平成十三年の夏八月の十三日にこの方が亡くなったとの知らせを受けました。
さてその年の冬、臘八の大摂心が参りました。
今年はもうさすがに糀も来ないだろうと思っていましたら、何とその娘さんから
「父の遺志であるから、せめて娘である自分がいる間は送らせて欲しい」と、
またはるばる岩手から糀を送っていただいたのでした。
これには心打たれました。
爾来毎年ご供養いただいて、臘八の摂心を務めさせてもらっています。
実に七十年余りにわたるご供養であります。
こんなご供養をいただいて、修行させてもらっていることに感謝しなければなりません。
そしてなお一層精進しなければ申し訳ないと思うのであります。
(平成30年12月 横田南嶺老師 臘八大攝心提唱より)