成人式を迎えられた皆様へ (管長よりお祝いの言葉)
【「成人祝賀の会」が1月14日に円覚寺大方丈においても開かれました。以下は、横田南嶺管長より成人式を迎えられた皆さんへ贈られたお祝いの言葉です】
成人式の法話
皆さん、成人おめでとうございます。本日は多くの方からおめでとうとお祝いいただいていると思います。私達も心からお祝い申しあげます。
不思議なこともあるもので、最近自分の勉強の為にと、茨木のり子さんの詩集を読んでいました。すると、今ちょうど読んでいた詩が、今朝の毎日新聞のコラムで新成人に送る言葉として紹介されていたのです。全くの偶然ですが、こういうこともあるものです。
どんな詩かというと、一部紹介します。
大人になるというのは
すれっからしになるということだと
思い込んでいた少女の頃
立居振舞の美しい発音の正確な
素敵な女の人と会いました
という一節から始まります。大人になるということは、経験を積んで人格を完成させるというよい意味と共に、純粋さを失って世間に馴れてしまうと悪い意味で使われることもあります。「すれっからし」というのは、世慣れした悪い意味です。 でも詩人の茨木さんは、ある女性との出会いから教えられたというのです。何を教えられたかというと、
初々しさが大切なの
人に対しても世の中に対しても
人を人とも思わなくなったとき
堕落が始まるのね
堕ちてゆくのを
隠そうとしても
隠せなくなった人を何人も見ました
何事も慣れるということは大事ですが、初々しさを失ってしまうと、大切なものを見失ってしまうことになります。そこで次のように茨木さんは詠いました。
大人になっても
どぎまぎしたっていいんだな
ぎこちない挨拶
醜く赤くなる 失語症
なめらかでないしぐさ
子どもの悪態にさえ傷ついてしまう
頼りない生牡蠣のような感受性
それらを鍛える必要は
少しもなかったのだな
という事に気がつかれたのです。そして更に言いました。
あらゆる仕事
すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている
きっと……
初々しい、純粋な心を失わないでいることが大切だと思います。慣れてきて純粋さを失うことが大人になることだとは思って欲しくありません。
新聞のコラム記事には、もう一つ茨木さんの詩が紹介されていました。
「倚(よ)りかからず」という七十三歳の時の詩です。
もはや できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて 心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば それは
椅子の背もたれだけ
という詩です。私どもは禅の教えを学んでいるのですが、この詩は禅の教えにも通じるところがあります。既存の思想や宗教など、なにものにも寄りかからずに、自分の目で見て自分の耳で聞いて、自分の足で立つのです。寄りかかるのは椅子の背もたれだけだと茨木さんは詠いましたが、その背もたれにも寄りかからずに、腰骨を立てて姿勢を正して生きてまいりたいものであります。
姿勢を正して、心のうちからあふれてくるのがまごころです。それを「至誠」と申します。この偽りのない誠の心をよりどころとして欲しいと願います。そんな思いで皆さまに「至誠」の二文字を色紙に揮毫しましたのでさし上げたいと思います。
式典に先立ち 新成人ほか参列者で読経管長のご法話新成人代表のお二人より感謝の言葉大方丈前にて記念撮影:『至誠』の色紙とともに