虚構と現実
現実の生活を送りながらも、人は何か虚構に心惹かれるものです
ユヴァル・ノア・ハラリさんは、私たちホモ・サピエンスが地球でこれほどまでに繁栄できた理由は「虚構を創作する能力」だと説かれています。
人間は共通の神話を持つことによって大きな力を生み出します。
ハラリさんは、貨幣や帝国、宗教など、人々が共通して信じるものが、大勢の人間を結びつける大きな力になったと説いています。
ジブリの鈴木俊夫さんと対談した折に、鈴木さんは、宮崎駿という方は、現実が嫌いだと仰っていました。
アニメーションは、人間が作り上げた虚構の世界です。
しかしそのジブリのアニメを見て、人は心から感動します。
その人の気持ちを変えてゆきます。
生き方が変わってくることもあるでしょう。
虚構の世界が、現実に影響を与えていくのです。
今までジブリの作品を見た人の数ははかりしれません。
どれほど多くの人に、どれほどの影響を与えていったのか、はかりしれないものがあるのです。
私は虚構よりも現実を重視しているつもりでいました。
禅の修行は、現実を大事にしていると思っていたのでした。
しかし禅の修行を支えている教えは、どれほどまで現実かというと定かではありません。
お釈迦さまが一輪の花を取り上げて皆に示し、迦葉尊者がにっこり微笑んで、お釈迦さまの教えが迦葉尊者に伝わったという話があります。
この話も、歴史的事実そのものというより、後の世に成立した伝承だと言われています。
しかし、その伝承を禅の起源を示すものとして受け止め、現実の世界で修行を続けてきた人々が、禅の歴史を作ってきました。
達磨大師の話などもどこまで現実にあったことで、どれほどが後の人によって作られたものか、定かではありません。
しかしその達磨大師の話を信じて、私たちは現実の世の中で修行を続けています。
現実から虚構が生まれ、虚構が現実の暮らしを支えて、あるいは現実の世界を変えていくことがあるのです。
そんな虚構と現実について思うことを佐々木閑先生と対談した折に申し上げました。
すると佐々木先生は即座にこう仰いました。
「私は、生命そのものがフィクションだと思っています。」というのです。
この一言には驚きました。
そして実に真実を衝いていると思いました。
佐々木先生は「フィクション」という言葉を使われていましたが、ここでいう「フィクション」とは、単なる作り話という意味ではなく、私たちが世界を認識し、「自分」というものを作り上げて生きていく、その「物語」のようなものを指しているのだと思いました。
佐々木先生は次のように説かれました。
「生命のいない世界というのは、重力や電磁気力などによって、無機的にただ物質が動いていく世界です。
ところが、そこにDNAやRNAのようなものが生まれて、やがて生命が誕生すると、「物語」が作られ始めます。
それは何かというと、「私がここにいる。そして私の外には外部の世界がある」という物語です。
世界を「自分」と「自分以外」とに二分して、その中で「自分が生きている」と認識するものが現れてくる。
自己認識をする存在が生まれてくるわけです。
しかし、もともとは何も区別のない世界の中で、さまざまなエネルギーの関係によって生じたものですから、本来、「自分」と「他者」という区別が絶対的に存在するわけではないはずです。
それでも、自分と他とを区別するという物語を作り、その物語の中で生きていく。
それが生命なのではないかと、私は思っています。
そう考えると、フィクションは実はリアルなのです。
フィクションは、リアルの中にあって初めてフィクションとして存在できます。
フィクションだけの世界というものは、この世にはあり得ません。
そして、そのフィクションを非常に大きく発達させ、さまざまな形で表現できるようになった生命体が人間です。」
というのです。
こういう話をすらすらとなされるのですから、やはり佐々木先生は素晴らしい方だと改めて思いました。
さらに佐々木先生は、
「人間はフィクションを自分の中でどんどん増殖させ、それを自分が生きるための術として、また生きるための土台として設定するようになりました。
それが、たとえば宗教の世界を作ったり、あるいは過大な自我を生み出したりする。
世の中で自分が一番上になろうとしたり、人より優位に立とうとしたりする。
そういう、ほかの生命体にはあまり見られない人間独自の力の強さというものは、フィクションが過大に肥大したところから生まれてくるのではないかと、私は思っています。
ですから、フィクションはリアルとは別個のものだ、という話にはならないのです。フィクションとリアルとは、実は一体化しています。」
というのであります。
そして
「私たちは自分自身の物語の中で生き、その物語が自分にとって満足できるものになるよう願っています。
ところが、現実は自分の作ったフィクションの通りにはなりません。
そこから、大きな苦しみが生まれてくる。
私は、人間の苦しみには、そういう構造があるのではないかと思っています。」
と説かれていました。
現実は思う通りにはいかない、思い描く物語のようにはならないのです。
それが「苦」なのです。
混沌とした世界の中で、私たちは自分とそれ以外の世界とを分けて認識します。
そして自分なりの物語を作り上げ、その物語の中で何らかの役割を果たそうとしている。それがお互いの人生であると言えましょう。
私たちは物語なしには生きられないと言えます。
しかし、自分で作った物語にとらわれて苦しんでもいるのも事実です。
その物語をすべて否定し、なくしてしまうこともできません。
私たちは物語なしには生きられないからです。
そこで、物語を物語と知った上で、しかもとらわれずに生きるというのが、禅の生き方だと思うのであります。
横田南嶺