まず腰骨を
般若心経を唱えたあとに、ほんの二、三分静かに坐る時間があります。
そのときに簡単に坐り方を話しています。
坐り方のはじめが「まず腰骨を立てます」からなのです。
先代管長の足立老師は、この時にはなにも仰らずにただ黙ってお坐りになっていました。
たまに、なにかひと言ふた言、下腹を前におし出すようにとか、細い息を吐くということを仰せになっていましたが、だいたいは黙っておられました。
そこで私も余計なことは言わないでいいと思っていました。
そうしていると、だんだん新しい人も増えて、大勢の方がお集まりくださるようになってきて、とある方から、あの時間、なにも言わないと、なんの時間か分からない人も多いようなので、少し説明をしてほしいと言われたのでした。
なるほどと思って、それから「まず腰骨を立てます」というひと言から始めるようになりました。
「腰骨を立てて背筋を伸ばし、肩の力を抜いて、鼻から細く長く息を吐いてゆきます」と説明させてもらっています。
そうしてしばし坐ってから法話が始まります。
法話のはじめには、合掌して、生まれたことの不思議、今日まで生きてこられたことの不思議、そして今日ここでお互いにめぐり会うことができたことの不思議に手を合わせて感謝しましょうと申し上げています。
まず腰骨を立てる、息を長く吐く、そして合掌して感謝する、この三つは毎回の日曜説教で変わらずに行っていることです。
腰骨を立てるということを、教育の現場で主唱されたのが、森信三先生でした。
森信三先生は「つねに腰骨をシャンと立てること― これ人間に性根の入る極秘伝なり。」(『森信三一日一語』)と仰せになっています。
かつて森先生の御高弟である寺田一清先生と対談したことがありました。
その時に、寺田先生が最晩年の森信三先生にうかがった話を拝聴しました。
寺田先生が「二十一世紀の教育で何が一番大事ですか」と森先生に尋ねたところ、森先生は即座に、「それは君、立腰教育だよ」とおっしゃったというのです。
森先生は十五歳の頃に、岡田式静坐法の創始者である岡田虎二郎先生のお姿に触れて深い感化影響を受けられました。
それ以来、「立腰」の大事に目覚め、「腰骨を立てる」ことを持続一貫されてこられた方なのであります。
森先生は『立腰教育入門』(登龍館)という本で、
「われわれ人間は心身相即的存在ゆえ、性根の確かな人間にしようと思えば、まず体から押えてかからねばならぬ。
意識は瞬時に変転するものゆえ、その持続性を養うためには、どうしても先ず体から押えてかかる他ない。
しかも体の中でいちばん動かぬところはどこかと言えば、結局は胴体であり、そのまた中心はどこかと言えば腰骨である。
それゆえ二六時中この「腰骨を立て貫く」以外に、真に主体的な人間になるキメ手はないと言ってよかろう。」と説かれています。
主体性の確立と、腰骨を立てることとは相通じていると仰せになっているのです。
禅では「脊梁を竪起する」という表現をします。
脊梁はせぼねであり、脊柱であります。
「脊梁を竪起する」ことと、「腰骨を立てる」こととは意を通じています。
白隠禅師は、「脊梁を竪起」することと共に「気を丹田に充たしめる」ことも大事だと説かれています。
森先生もまた「私が何とか今日まで来れたのは、十五歳のとき伯父の影響で岡田式静坐法を知り、爾来八十二歳の現在まで一貫して腰骨を立てて来たことに拠るが、しかし近ごろになって、それだけでは尚足りず、やはり「丹田の常充実」こそ最重大なことに目覚めて、今や懸命にこれと取り組んでいます。」(『森信三一日一語』)と仰せになっていることにも通じています。
森先生は「腰骨を立てる」「丹田を常に充実させる」と説かれていて、白隠禅師は「脊梁を竪起する」「気を丹田に充たしめる」と説かれているのです。
腰を立てても上半身が力んでいてはよくありません。
岡田虎二郎先生はみぞおちを落とすことを大事にされていたといいます。
それは、上体の力を抜くことを言っていると思われます。
上体の力が抜けると、自然とおへそから下に気が充実してきます。
丹田の充実には呼吸も深く関わっています。
胸だけの浅い呼吸では不十分であり、横隔膜を上下させることが重要です。
長く息を吐き、呼吸とともに心気がおへその下、丹田に充実するように調えてゆきます。
さらにまた吐く息でも、丹田の力を抜かぬようにします。
白隠禅師は『遠羅天釜』に「何をするにしても、常に心気を下腹部(臍輪気海丹田)に充実させることです。仕事の合間、客人と応対する時も、日常生活のどんな時も、常にたゆまずこれを続けるならば、一身の元気は自ずと丹田に充実して、ちょうど瓢箪のようにふくらみ、皮をやわらかくする前の蹴鞠のように堅くなる。」と述べておられます。
森先生は『立腰教育入門』で静坐法の三大功徳として「一、主体性の確立、二、自足、自全の自己充実感、三、相対観の超脱による絶対境の把握」をあげておられます。
主体性の確立は、人間として生きる上でとても大切なことであります。
臨済禅師は「随処に主となる」といって、いかなる場においても主体性を持つことを説かれています。
私は、この自己充実感というものを、今ここに生かされていることへの感謝に満たされることだと受けとめています。
大いなる恵みに生かされていることに気づかされることです。
そうすれば、現実の世の中で、相対的にものごとをとらえて、比較対照して苦しむことはなくなってくるのです。
腰骨を立てて、息をゆっくりと長く吐いて、手を合わせて感謝をする、この三つを伝えることができれば、私の法話はじゅうぶんだと思っています。
横田南嶺