新『禅文化』
いろいろなことに取り組んできました。
セミナーなども開催してきました。
YouTubeも始めました。
所長と行く禅の旅という企画も始めました。
その中でも大きな課題であったのが、『禅文化』という季刊誌をどうしていくかということでありました。
季刊『禅文化』は昭和三十年に発行されていますので、七十年にわたって発行されてきています。
年に四回発行していますので、今回で二百八十号になるのです。
これをこのまま継続していくのが一番良いのであります。
しかしながら、このまま継続していくのが難しいという現実の問題がありました。
どうしたらよいか、研究所の方々と何度も話し合いました。
理事会、評議員会でもご意見を求めました。
なんとか研究所を継続させていくためには、この『禅文化』をどうするかという問題になります。
刷新委員会も作って検討を重ねました。
問題はなんといっても諸経費の高騰と、読者の減少であります。
経費を抑えて、多くの方に読んでもらえれば問題は解決するのです。
そこで苦渋の決断でありますが、年四回の発行を年に二回にしました。
連載はウェブ上で読んでもらうようにして、冊子の方では、毎回読み切りの内容としました。
かくして二百八十号は新しい『禅文化』となったのでした。
今までも毎回特集がありましたが、これからは特集記事により一層力を注ぐことにしました。
今回の特集は「禅の修行と生活」というものです。
禅の命脈は、僧堂の修行にこそあるので、新しい『禅文化』はこの特集から始めることにしたのでした。
巻頭には対談を掲載しています。
妙心寺派管長の山川宗玄老師に私がいろいろお話をうかがっています。
「修行とは何かー理不尽の中で見えたもの-」というテーマで語り合っています。
それから今回の『禅文化』で一番読んでほしいのが、円福寺僧堂師家の政道徳門老師の論稿であります。
「禅の実践と工夫」という題で書いてもらっています。
とても読み応えのある論稿であります。
この論稿をどなたに執筆してもらうかということでも議論を重ねていました。
私は、政道老師をおいて他にいないと確信してお願いしたのでした。
政道老師は、実直なお方で何度も相談をしながら、ご執筆をしてくださいました。
それだけに素晴らしい内容となっています。
円福寺は、今や日本で最も修行僧の集まる僧堂であります。
円福寺僧堂の修行の様子もたくさんの写真で紹介しています。
政道老師の論稿では、「入門、坐禅と経行、日常の起居、作務と托鉢、提唱と入室」という内容であります。
ほんの一部を紹介させていただきます。
「日々「習定」、すなわち坐禅に励んでいた若き日の馬祖に、南嶽懐譲が問いかける「大徳(師僧や先輩僧が、後輩の僧侶に親しみを込めて呼ぶ敬称)、坐禅などして一体何を意図しているのか」。
馬祖が「仏になるつもりです」と答えると、懐譲は一枚の敷瓦を持ってきて磨きはじめた。
「お前さんのやっていることは、瓦を磨いて鏡にしようとするようなものだ」。すなわちーー凡夫(悟りを開いていない普通の人間)が一所懸命坐禅をして将来仏になろうとするーーその筋書き自体が誤っているのだ、と。」
と南嶽禅師と馬祖禅師の問答を取り上げてくださっています。
それに対して政道老師は
「これは実に大乗仏教ならではの考え方である。ーお前さんはすでに悟っている。悟りの真っ只中にいるのに、坐禅という形にこだわり、仏となろうとすること自体が的外れなのだー。
とはいえ、こう言われて本心から納得できる人は多くないだろう。
苦しみの真っ只中にいるからこそ道を求めているのであって、例えば「本来無一物」と言われてもなかなか実感が持てない。むしろ「本来有一物」だ。確実に「苦しみ」が自分に「有る」ことだけは知っている。
僧堂で坐禅の時間を重んじるのは、まさにここに理由がある。
坐禅という行は、身体を動かせないがゆえに一切のごまかしが効かず、「今・この瞬間、心に起こっているもの」と向き合わざるを得ない時間となるからである。
これは決して心地よい時間ばかりではなく、むしろ不快なもの・見たくないもののほうが多い。すなわちそれは「苦しみ」である。
しかし、その「苦しみ」と出会うことこそが修行において最も大切なのだ。」
と説かれています。
修行の大事なことが要約されています。
他に
「禅修行の歴史」として、
「仏としての生活―インド仏教の「律」から中国禅宗の「清規」へ」と題して、東京大学東洋文化研究所准教授・花園大学国際禅学研究所副所長の柳 幹康先生が書かれ、
「言葉にできないものの禅問答―問答の展開」と題して、新潟大学准教授の土屋太祐先生が書いてくださっています。
また「作る禅 食べる禅」として、
「台所の禅修行」と題して、曹洞宗永福寺住職・精進料理研究家の髙梨 尚之様が書いてくださっています。
「精進食の至芸化に寄与した禅文化」という項目で、「擬製(もどき)料理の妙」と題して、梅花女子大学教授の東四柳祥子先生が書いてくださっています。
更に「禅のある生活」として全生庵住職の平井正修和尚が、「情報化社会に問う
なぜ、今、ただ坐るのか」と題して書いてくださっています。
「経営者と坐禅―私の学び」と題して、実際の経営者の方がどのように禅と関わっているか、株式会社ユーグレナ代表取締役社長の出雲充氏が書いてくださっています。
「墨蹟をみる 自己も円、天地も円」と題して龍雲寺住職の細川晋輔老師が書いてくださっています。
そして巻頭には研究所理事長の松竹寛山老師が、素晴らしい言葉を掲げてくださっています。
この全文を紹介します。
禅修行は真の自己を知る
己事究明への格闘である。
荊棘の道に身を投じて、
雑念・妄想を払い、
全力を尽くして目前の事になりきる。
まずは、「ひとーつ、ふたーつ」と
数息を修して坐禅三昧となる。
「ギャーテー、ギャーテー」と
読経して心経三昧となる。
「無ーッ」「隻手音声ーッ」と
全身全霊で公案三昧となる。
さらに、日常万般における
自我との格闘の末、
自他の境界がとけ、
苦しみに満ちた二元世界から、
一切とらわれのない一元世界へと解放され、
真空無相の真の自己と出会う。
それを見性という。
空ともいい、無ともいい、
不生の仏心ともいう。
禅を志す修行者は、まずここを目指す。
という言葉であります。
新『禅文化』にふさわしい巻頭言であります。
刷新にあたっては、研究所の評議員でもある小川隆先生が「禅を一人称で語る雑誌を作ろう」と仰ってくださり、その言葉をもとに新たな一歩を踏み出したのであります。
横田南嶺