自分の物はあるのか
小金丸先生はあらかじめとても綿密な資料を作ってくださいました。
戒定慧や布薩の大切さも丁寧に説いてくださいました。
それが、慈雲尊者のいろんな著作から言葉を引用して教えてくださいました。
このような資料は、よほど慈雲尊者の著作を読み込んでいないと作れないものであります。
「戒を謹慎に護持すれば禅定が自ずから現ずる。現ずれば智慧が自ずから生ずる。戒定慧より現われた智見でなければ経の意は知れぬじゃ。」という言葉を示してくださいました。
戒定慧の三学というのは、仏教を学ぶ上では基本であります。
「今時、諸宗に言うところ、多くはこちらの宗旨は〈定は修せずとも戒法ばかりでよい〉と言い、またあるいは〈禅定のみにて戒を持つにはおよばぬ〉と言うは、みな悪邪見の類じゃ。」
という言葉にも考えさせられます。
たしかに盤珪禅師などは、不生の仏心でいさえすればいいのであって、戒をたもつように意識することなど不要と説かれています。
これは盤珪禅師ほど修行して悟りを開かれて、仏心のままにお暮らしの方であって初めて言えることであって、我々がこの言葉を鵜呑みにするわけにはゆきません。
やはり戒をしっかりと意識して暮らして、その上で禅定を修めて、智慧を修するのであります。
布薩について、「阿難尊者の嘆きを抑えて、世尊に滅後のことをお問いなされたれば、世尊の御に、清浄持戒の比丘が半月々々に如法布薩の絶えぬ内は、正法久住と名づけると仰せられたじゃ。よって布薩ということは大切なことじゃ。
また経の中に、「我々々に一たび来る」と仰せおかれたも、この布薩のことじゃ。」
という言葉も示してくださいました。
私どもの修行道場ではどうにか月に二回の布薩を行い、また一般在家の方向けにも月に一度修していますが、このように慈雲尊者も布薩の大切を説いてくださっているのを学ぶと、とても張り合いが出てきます。
とてもとても「正法久住」などと言えるものではありませんが、それでも布薩を修めて自身を見つめるようにしています。
戒を清らかに守るということに二種類があると説かれています。
一つははじめ受戒してから、ほんのわずかな罪も犯さずに戒を守る人です。
これはたしかに清浄持戒です。
しかしもうひとつあります。
人を殺すというような大きな罪を犯すことはないけれども、いろいろ日常の見たり聞いたりする物に触れて過ちを犯すことがあります。
むさぼりの念を起こしたり、嗔の念や嫉妬の思いを起こすことがあります。
それを半月ごとに布薩において、懺悔して身を慎むのです。
これもまた清浄持戒だと慈雲尊者は説かれています。
六和敬(ろくわきょう)ということも教わりました。
これは、修行する者同士、互いに心を同じくし、同様に修行し、敬い合うことが六種有るというのです。
その一つが戒和敬です。
同じ戒を保ってお互いを敬い合うのです。
見和敬は、同じ見解を持つことです。
利和敬は、利益を共にすることです。」
身和敬は、同じように身体で行うことです。
口和敬は、同じように口で唱えることです。
意和敬は、同じように信心をして、目的に向かって心を起こしていくのです。
これら六和敬にも戒を同じようにたもって敬い合うことが説かれています。
布薩はこの戒和敬の中にあると慈雲尊者は説かれています。
「戒を持すれば身心清潔になるじゃ。」という言葉はありがたいものです。
三帰依について、「三帰を受くるは、一切諸戒の基本じゃ」と慈雲尊者が説かれています。
また「この三帰が衆善万行の本じゃ。仏道初入の門じゃ。成仏の基本じゃ。」とも仰せになっています。
三帰依とは仏法僧の三宝に帰依することですが、三宝については「初発心よりよく心を用いて修行して、終に廓然大悟した人を仏という。この仏は何を体となさるるなれば、法を体となされたものじゃ。この法を伝うるは則ち僧じゃ。ゆえに仏法僧の三宝というじゃ。」とお示しになっています。
三宝に帰依するということは、「仏のためには身命をも棄捨し、法のためには身命をも棄捨し、僧のためには身命をも棄捨する想いをなすことじゃ」というのです。
「仏というは、我が心の清浄なる名なり」という言葉は端的に仏とは何を示してくださっています。
小金丸先生の『慈雲尊者の『十善法語』を読む』には、不偸盗戒について興味深い話が書かれています。
宝間比丘という方の話です。
戒を受け終わってお釈迦様の所に行って、礼拝して申し上げました。
「すでに戒を受け終わりました。これから先どのような修行をして煩悩を超えた悟りを得るべきでしょうか」と。
お釈迦様は「あなたの物でなければ取ってはならない」と言いました。
そこで宝間比丘は、この一言の教えを受けて礼拝して去り、結跏趺坐して思惟するのです。
宝間比丘にとっては、他人の金銀財宝や地位に欲をおこしてはならないことは、いまさら意識してたもつほどのことはありません。
もっと重要な意味があるのだろうと考えたのでした。
宝間比丘は、自分の物とは一体何であろうかと考えます。
今までの在家の生活で得てきた家や財産や地位は、出家した時から自分の物ではなくなっています。
妻も家族も出家すれば自分のものではありませんので頓着することはありません。
更にこの自分の身体、頭や目や手足は自分の物であろうかと考えます。
これもただの肉の塊で、父母の肉と血を分けていただいたものに過ぎないのです。
生まれ落ちて以後、衣服と食物、寝具、医薬で養ってきた物に過ぎません。
最後には朽ち果てて土に帰るのであるから、自分の物とも言えないのです。
更に眼で見ている物は自分の物であろうかと考えます。
これも、こちらに眼球があり、外に物があり、途中に空間があり、光があって、それらの条件が合わさって仮にそのような形として見えているだけであって、実体のないものであり、自分の物とも言えません。
取ることもできません。
耳で聞くものもそうです。
更に心は自分の物であろうかと考えます。
心といっても結局は感覚器官が捉えた影のようなもので実体はないので、自分の物でもなく取ることはできません。
このように憶念した時、物にとらわれた心を完全に離れて、何のわだかまりもなく心が開けて、全ての頃悩を断じ尽くした涅槃を得たというのです。
自分の物でなければとってはならないというのは十善戒の不偸盗戒にあたりますが、この戒を深めていっても悟りの世界に達することができるのです。
横田南嶺