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臨済宗大本山 円覚寺

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2026.05.31
今日の言葉

不生で救われる

先日の禅文化研究所の「生老病死・四苦八苦をどう生きるかー盤珪禅師に学ぶ「苦しまない」心」という講座では、私ははじめに盤珪禅師の不生の教えとはどのようなものか、基調講演をしました。

はじめに、禅とは何でしょうかという、この問いかけから話しました、

この問いは、実に単純なようでいて、これという解答が得られないのです。

「禅とは何か」、それについて様々な説明や理論はありますが、しかし、いくら本を読み、言葉を学び。人の話を聞いても、いったい何を説いているのか、腑に落ちるものは得られないのです。

それでも、禅という教えが千年以上にわたり、中国から朝鮮、日本へと伝わり、多くの人々が求めて、現実の苦しみから開放されてきたことは事実であります。

禅には、苦しみを超えた世界に導いてくれる、大きな力があったのであります。

禅の始祖とされるのは、インドから中国へ渡った達磨大師であります。

五世紀から六世紀頃、日本ではまだ聖徳太子以前の時代であります。

達磨大師が何を説いたのか、史実としては必ずしも明らかではありません。

しかし、中国唐代になると、達磨大師が何を説かれたのか、はっきりと示されるようになります。

八世紀頃の馬祖禅師は、「達磨大師は、あなたの心こそ仏であると説いた」と示されています。

唐の時代には、「あなたの心が仏だ」という、その一言によって目覚めた人々がいたのであります。

もっとも、現代の私たちは「心が仏だ」と言われても、なかなか腑に落ちません。

ではその仏とは何ですかと問えば、「それはあなたの心だ」と言われてしまいます。

禅の祖師方は、この「心」に目覚めて、その心とはどのようなものなのか、それぞれの立場から語ってきました。

その「心」とは一体どのようなものなのか。

現代でも、私たちは何気なく「意識がある」「意識がない」と申します。

しかし、その意識の正体とは何かとなりますと、医学の世界でも、精神の研究の世界でも、決定的な結論を見出すことは難しいようであります。

禅の祖師方は、心について目覚められて、その心とはどのようなものか、それぞれの言葉で説いてくださいます。

それぞれの表現ですが。ある共通したところがございます。

私たちは「心」というと、見たり聞いたり考えたりしておりますから、何かこの身体の中心部にあって、全身に命令を出している司令塔のようなものを想像いたします。

しかし、真に「心とは仏である」ということに気づいた人々は「心というものは、この小さな身体の中に収まっているようなものではない」と説かれています。

もっと広いのです。

どれほど広いのか、今日の言葉で申せば、大宇宙ほどの広がりを持っているというのであります。

昔の人は「虚空」と言っていますが、空間的に言えば、それほど広大なのです。

では時間的にはどうでしょうか。

この心というものは、いつ生まれ、いつ滅びるのでありましょうか。

私たちは、自分がこの世に生を受けた時に心も生まれ、息を引き取る時に心もまた消えてなくなると思っていたりします。

しかし、中国の唐代、その「心」の本体に気づいた人々が共通して語っているのは、「その寿命は計り知れない」ということであります。

「大宇宙と同じ寿命である」と表現するのであります。

現代の私たちは、「宇宙はビッグバンによって百数十億年前に始まった」と教わっておりますから、「その時に心も発生したのか」と想像するかもしれません。
 
しかし、当時の仏教者たちは、宇宙には始まりがないと考えておりました。

禅の祖師方は、この心にはいつ生まれたという始まりもなければ、終わりもないと説いています。

「始まりと終わり」という枠を超えたものだというのです。

お互いの心というものは、小さなものではない、大宇宙いっぱいに広がっている、そして、その宇宙いっぱいに広がっている心が、今、この私の身体の上に働いて、見たり、聞いたり、歩いたりしているのであります。

その心には、「いつ生まれた」という始まりもなければ、「いつ死んで終わる」という終わりもない。

これを「不生」といいます。

そうした心の本体に気づいた人々が、深い安らぎを得ていったのであります。

そして禅では、その「心の本体」と「仏」とは、まったく同一であると説くのであります。

仏というものは、どこか遠くにある特別な存在ではない。

お互いが今、見たり聞いたりしている、その働きそのものの上に、すでに十分現れているのであります。

だから、もう外へ向かって求める必要はない。

外に求める必要がないという意味で、臨済禅師は「無事」と言われました。

外に仏を求めて右往左往しなくてもよい、本来そのままで足りている、そういう深い安心の境地を表しているのが「無事」という言葉です。

大事なことは、お互いの心の本体に気づけば、現実の苦しみを超えていけるということであります。

そのような深い体験をなされて、多くの人たちに説いて苦しみを救ってくださったのが、江戸時代の禅僧、盤珪永琢禅師であります。

そのあと松山照紀さんの講演と松竹寛山老師の講演があり、最後のお二方と私と三人で鼎談をしました。

鼎談のあとに質疑応答の時間を設けました。

そのなかで、母との関係に苦しみ、どうしても心が重くなるのだという方がいらっしゃいました。

盤珪禅師の不生の仏心を、知識ではなく、身体で感じるような気づきとして得られるにはどうしたらいいかと松山庵主さんに問われました。

庵主さんは静かに語ってくださいました。

盤珪禅師は、「親が生みつけたもうは、不生の仏心ひとつ」と説かれました。

考えてみれば、誰一人として、生まれた時から怒りや憎しみを抱えていたわけではありません。

皆、純真無垢な赤ん坊として生まれてきました。

まだ「良い」「悪い」という分別もなく、ただ呼吸をし、周囲の音を聞き、時に微笑む。その姿が実に尊いのです。

赤ん坊の笑顔というものは、何かを計算して笑っているのではありません。

そこには、作為のない命そのものの輝きがあります。

盤珪禅師のいう「不生の仏心」とは、まさにそうした本来の命のはたらきなのです。

そんな本来の心にたち返ってみれば「母は命がけで自分を育ててくれた。大事にお腹の中で育み、昼も夜もなく世話をし、自分の命の土台を作ってくれた。そのことを思うと、感謝しかない」という気持ちになるのです。

もちろん、現実には親子の間に様々な葛藤があります。思うようにならないこともあるでしょう。

しかし、「自分の理想通りの母親になってほしい」と相手を変えようとするよりも、まず自分自身が、本来の心に立ち返ることの方が大切なのだとお話しされました。

人を変えようとすると、大変な時間と労力がかかります。

しかし、自分自身の受け止め方が変われば、世界の見え方も変わっていきます。

だからこそ、この教えに触れながら、毎日少しずつ自分の心をととのえていくことが大切だと言われました。

嫌なことや苦しい思いを溜め込まず、吐き出し、そしてまた本来の自分に帰っていく。

その繰り返しの中で、盤珪禅師の教えが少しずつ身に沁みていくのでありましょうと親切に語ってくださっていました。

聞いておられた方の表情が明るくなっていったと、感じられました。

有り難いお示しでありました。

不生の仏心に目覚めることは、苦しみから解放されるのです。

 
横田南嶺

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