聖なるもの
今回は唐代の禅でも石頭系の禅について学びました。
前回は馬祖禅について学んだところでした。
馬祖の禅というのは分かりやすいものです。
小川先生は『禅思想史講義』(春秋社))の中で、馬祖禅の特徴である即心是仏、作用即性、平常無事を「すなわち、自己の心が仏であるから、活き身の自己の感覚・動作はすべてそのまま仏作仏行にほかならず、したがって、ことさら聖なる価値を求める修行などはやめて、ただ「平常」「無事」でいるのがよい」と分かりやすく説いてくださっています。
ところが、その馬祖の教えに対して違和感をもつ人が出てきたのでした。
それが石頭禅師の系統なのです。
大顚禅師の話がはじめにでました。
大顛禅師が石頭禅師に参じた時のことです。
石頭禅師から、どれがあなたの心なのかと問われます。
大顛禅師は、今こうして話をしているものですと答えます。
心といってもこれは仏心、仏性を意味しています。
仏心はどこか遠くにあるのではなく、今の自分の生身のはたらきの上にこそあるのだという、馬祖禅師の教えそのものです。
大顛禅師は馬祖の禅を会得していたと思われます。
ところが石頭禅師は、その答えを聞いて一喝して追い出してしまいました。
十日ほど経って、大顛禅師は石頭禅師に、以前答えたことが駄目だというのでしたら、このはたらきの他に仏心はあるのですかと問います。
石頭禅師は、眉を揚げたり瞬きしたりするはたらきを除いて心をもってこいと示されます。
大顛禅師は、このはたらきを除いて他に持ち出す心などありませんと言います。
石頭禅師は、さきほど心があるといいながら、どうして無いというのか、あるといっても無いといっても謗ることになるぞと言いました。
小川先生は、『禅思想史講義』の中でも、「馬祖禅ふうのありのままの自己とは別次元の本来性の自己に対する探求が深められてゆきました」と説かれています。
本来の自己と現実の自己と、これがひとつだと見るのが馬祖の教えといってもいいでしょう。
本来の自己は形而上であり、現実の自己は形而下とも言えます。
形而下の現実の煩悩にまみれた自己を否定して、本来の自己、仏心を求めるのが、六祖や馬祖以前の教えでもありました。
そうではない、仏心は現実態にこそ現れているのだと説いたのが馬祖禅師であります。
本来の自己と現実態の自己とをそのまま同じともできないといったのが石頭禅師の系統の方々です。
しかし二項対立ではありません。
そのまま同じとも言えません。
二にして一、一にして二というのですが、これがどうもわかりにくいものです。
小川先生のご講義のあとに、私も自分なりにあれこれと考えてみました。
およそ何かを求めるという行為は現実の自己に満足できないから始まります。
現実は不便で貧しいからなんとか便利で豊かにしたいと思って、科学技術や経済が発展してきました。
宗教や道と名付けるものは、現実は俗であり、汚れたものであるから聖なるものを求めるところから始まったといえます。
聖なるものへの求めこそ、道の根源にあるものです。
その聖なるものは自己の外にあるのではない、また自己を修練していった結果に達成するものでもない、あなたがそのまま聖なるものですと説いたのが馬祖禅師であります。
聖なるものを求めようとしている者こそが聖なるものだというのです。
これはひとつの答えになるものです。
聖なるものを求めて到って答えとも言えます。
しかしはじめから現実態のままでいいと言われても、聖なるものを求める心情というのは、誰しも否定できるものではありません。
そこでやはり現実態を超えた聖なるものを求めるのでしょう。
洞山禅師は「渠はまさしく我であり、しかし、我は今渠ではない」と説かれるのも分かるのです。
更に雲厳禅師と道吾禅師の問答も学びました。
こちらは『禅思想史講義』から小川先生の現代語訳を引用します。
「雲厳が茶をいれている。そこへ道吾が問いかける。
「何をやっておる」
「茶をいれておる」
「誰に飲ます」
「お一人茶をご所望の仁があってな」
「ならば、なぜ、そやつに自分でいれさせぬ」
「うむ、おりよく、それがしがおったものでな」」
という問答です。
この問答はよく鈴木大拙先生が引用されていました。
この「一人」大拙先生は、「超個」といったり、「法身」とか「無分別」とかいろんな表現をされています。
そのなかで大拙先生は、聖なるものという概念を説かれてはいないかどうかを円覚寺派教学部長の蓮沼直應先生に聞いてみました。
大拙先生は、本来性を「無限」、現実態を「有限」としていろんな表現をされていることを教えてくださいました。
『鈴木大拙全集第十巻』『宗教経験の事実』にあります。
一部を抜粋します。
「無限」のなかには
動かぬもの、變らぬもの(寂然不動)
般若の大智慧
無知、無分別
無緣の大悲
遊戲自在、神通無礙
法身佛
心真如
自然、常爾、法爾
一切を赦すもの
などが説かれています。
「有限」のなかには
動いて止まぬもの、絕えず變異するもの(無常迅速)
分別識
見聞覺知、對象的認識
愛憎の中に生きること、倫理道義の世界
業、因果、應報
佛魔
物心、心生减
人為、はからひ
赦されざるを恐れるもの
を揚げられていますが、聖なるものという概念はありません。
ただ大拙先生は、全集第十二巻『禅による生活』の中には、アメリカ人向けに、キリスト教の表現を借りながら語る際に「聖なるもの」という概念が用いられていることもあると蓮沼先生は教えてくださいました。
このように書かれています。
「禪は生きることであり、禪は生活である。生きることが禪なのだ。つまり、われわれは禪によつて生きてゐるのでなくて、禪そのものを生きてゐるのだ。然しながら、われわれは禪によつて生きるといふが、これはその事實を意識してゐるといふことの意味である。
この意識が如何に大切なものかといふことは議論の餘地はない。何故ならば、人間の生活の中で「聖なるもの」をその生活の中に認識する以上に大切なことが又とあるだらうか。犬は常に犬であるのだが、己れが犬であることをも意識せず、又己れのうちに「聖なるもの」を包容してゐることをも知らない。だから犬は己れを超越することはできないのだ。
犬は骨を見つけると飛びついて喰らふ、喉がかわけば水を飲む、周期的に異性を追ひまはす、競爭者とたたかつて死をもいとはない。その生の終らんとするや、ただ息をひきとるだけである、その運命を歎くわけでもなく、悔いもせず、望みもなく、又あこがれもしない、これはどうしてなのか。犬はその「佛性」を自覺しないので、この眞理を悟らずにすぎたからにほかならない。
犬はまさに禪に生きるが、禪によつで生きるのではない。
禪に生きると同時に、禪によつて生きるのは、人間だけである。
禪に生きるだけでは不十分である。
人間は禪によつで生きなければならない。」
と説かれています。
やはり現実のままをありのままに肯定するだけでは、禅に生きるとは言えますが、禅によって生きるとは言えないのでしょう。
そこに聖なるものへの求めと、聖なるものの自覚が必要です。
しかし聖なるものは、決して現実態を離れてどこかにあるのでもない、現実態の中に自覚してこそ禅によって生きることになると言えます。
そのあたりを石頭系の禅では、「二にして一、一にして二である」と言ったのかと、そのように考えてみたりしたのでした。
なぜ一だけとは言わないのか、二が必要なのか、宗教的に聖なるものの求めがあるから二であり、その聖なるものは現実態にこそあると自覚するから一であるのではと考察したのでした。
横田南嶺