足で大地に立つ
これでもう46回となる坐禅講座であります。
いつものように御元気な奘堂さんであります。
控え室でお話していて、最近私ども臨済宗で行った宗勢調査の話題になりました。
臨済宗の全寺院で大がかりな調査が行われたのでした。
たくさんの項目にわたって調査をして、今の臨済宗の寺院がどのような状況なのか、これからどのようになっていくのか、どういうことをしたらいいのかをいろいろと考え学ぶのであります。
これはとても大事なことであります。
大事なことだというのは重々承知しています。
私自身も先日この宗勢調査に基づいた話し合いの機会がありました。
ただ私の悪いところで、そのことはじゅうぶん自覚しているのですが、こういう統計にはあまり興味が湧かないのであります。
普段から親しくさせてもらっている奘堂さんですので、つい思わず「私などはただ坐禅して死んでいくだけだと思っているので、あまりこういうことに関心はないのです」と申し上げてしまいました。
ただその言葉を奘堂さんはとても気に入ってくださったようでした。
しかし、こういう考えを持っていたとしても、現実の宗派の様子について真摯に学ばないといけません。
私自身は反省しています。
このたびの講座で奘堂さんがはじめに力強く説いてくださったのは、ゲーテの言葉をもとにされたことです。
このような言葉でした。
「私(佐々木奘堂)が禅を長年学んできて得た一つの確信(ゲーテの言葉から)
誰でも確固たる足で大地に立つごとができる。
勇気をもってこの道を歩んでいこう
(我々は仏の御いのちを生きているのだ。勇気をもって確固たる足で大地に立とう。)
ということでありました。
『ゲーテとの対話(エッカーマン)』(第三部1832 年3 月11 日)の中に、
「確固たる足で神の大地に立ち、神より恵まれた人間性のあることを自覚するだけの勇気を回復した。(亀尾英四郎訳)」
という言葉がもとになっています。
たしかに誰でも足で大地に立っています。
なんの造作もなしに、訓練もなしに、足で大地に立っています。
赤ん坊のころから立とうとしてきました。
それから奘堂さんが高校時代に倫理社会の教科書の言葉に心打たれたのだと話をしてくださいました。
こんな言葉であります。
「真の自己とは何か
わたくしたちは、ふつう実在を対象的にとらえているが、西田はここに見られるように、対象化できないじぶんの奥底に、真の実在を求めている。
そしてこの考えを、その後も体験と論理に即してどこまでも推し進める。
体験としては、自己を捨てさり、自己に死し、自己が無になって生きるところに、真に自己が生きる、という自覚をもって、かれはそれを「絶対無」ということばで表現する。
しかしそれとともに西田はこのような体験をどこまでもョーロッパの論理的な哲学の方法によって明らかにせねばならないと考える。
そのためにかれは一生悪戦苦闘した。
「形相を有とし形成を善となす泰西文化の絢爛たる発展には、尚ぶべきもの、学ぶべきものの許多なるは云ふまでもないが、幾千年来我等の祖先を孚み来った東洋文化の根柢には、形なきものの形を見、声なきものの声を聞くと云った様なものが潜んで居るのではなからうか。
我々の心は此の如きものを求めて已まない。
私はかかる要求に哲学的根拠を与へて見たいと思ふのである」(『働くものから見るものへ』)ということばが、西田の哲学的動機を何よりも明らかに物語っている。」
という言葉であります。
西田幾多郎先生は禅の修行に打ち込まれた方でもあります。
「自己を捨てさり、自己に死し、自己が無になって生きるところに、真に自己が生きる、という自覚をもって、かれはそれを「絶対無」ということばで表現する。」
というところは禅の道そのものだと言えます。
西田先生の仰る「形なきものの形を見、声なきものの声を聞く」というのを奘堂さんは、『臨済録』の「無形無相、無根無本、無住処にして、活溌溌地なり。」という言葉に通じると仰っていました。
姿も形もない、根本もなにもない、なにもとどまることもなくて、それでいて生き生きとはたらいているのです。
更に奘堂さんは夏目漱石の言葉を示されました。
『吾輩は猫である』にある言葉です。
「自ら求めて苦しんで、自ら好んで拷問に罹っているのは馬鹿気げている。
もうよそう。」
という言葉です。
この言葉をもとにして、奘堂さんは、
「禅とは、自らを歪め苦しめている現状から、本当に「もうよそう」と実地に歩むことである。坐禅は端正で大安楽な道である。」
と示してくださいました。
道元禅師の言葉をもとにして、奘堂さんは、
「端坐せよ。本来の面目現前せん。
急ぎ坐禅を務め、正身端坐せよ。
坐禅は則ち大安楽の法門なり。
直指端的の正道に早向かわん。
自らの宝蔵を受用し如意に使わん。」
と私たちに懇切に坐禅の道を教えてくださったのでした。
そこから今回も五体投地を丁寧に行って足の付け根、大腿骨で立つことをしっかりと実習しました。
この実習も反復練習になってはならないのです。
一回一回新たな気持ちで我が身を投げ放つ気概が大事なのであります。
足で大地に立つ、これが基本です。
その足が大腿骨の付け根になると、坐るという姿勢になるのです。
足の付け根で立つという気持ちで坐ると、技巧を離れて自ずと腰が立つのであります。
奘堂さんとは、お互いに「坐禅して死ぬだけだ」と思っている同志なのであります。
横田南嶺