禅と念仏
禅と浄土門の念仏とを共に双び修めるという意味です。
『禅学大辞典』には、「禅浄兼修」という言葉があります。
「坐禅と念仏を共に修すること」「念仏三昧をもって無上深妙の禅門であるとする考え」と解説されています。
もともと念仏というのは、仏教の修行の一つであります。
文字通り仏様を念じるのであります。
中国の東晋の時代、廬山におられた慧遠は、念仏の結社を結び、阿弥陀仏を念じながら三昧に入りました。
浄土教の始祖ともされています。
念仏とは、心を一つにして仏を念じる「念仏三昧」でありました。
そこには深い禅定の要素があったのです。
唐代になると、善導大師が阿弥陀仏の本願を強調し、「南無阿弥陀仏」と称える称名念仏を広めます。
しかし中国では、「禅浄一致」ともとらえられて、禅と念仏は本来一つであるとされていました。
白隠禅師が、自らの座右の書とされた『禅関策進』という書物にも念仏の話が出ています。
「智徹禅師浄土玄門」という一章があります。
現代語訳を筑摩書房『禅の語録19 禅関策進』から引用します。
「称名念仏を一声、あるいは三五七声して、黙々として返問せよ、「この一声の仏はいったいどこから起ってくるのか」と。
また「この念仏しているのはいったい誰か」と問い、疑いがあったらひたすら疑ってみよ。
もしこの問いがびったりしていず、疑情も切実でないならば、再ぴ、「畢竟ここに念仏している者は誰か」と問いを挙揚してみよ。
前の一問において間い方も弱く、疑い方も弱かったら、ただ「念仏するものこれいったい誰か」という公案に向って明らかに間うてみよ。
評「この一声の仏はどこから起ってくるか」という前の問いがないままで、「この念仏する者は誰か」という公案だけにとっくむのもよい。」
という教えであります。
この教えなどは、念仏が公案となっていると言えます。
まさに念仏と坐禅の修行が一つであったことが分かります。
また『禅関策進』には、浄土経典からの引用もあります。
『阿弥陀経』から
「名号を執持して、一心乱れず。」という言葉を引いています。
そして「只だ此の一心不乱の四字、参禪の事畢んぬ。
人多く此に於て之れを忽(ゆるがせ)にす。」と書かれています。
「阿弥陀仏の名号をよくたもち、心を一にして乱さない。
ただこの一心不乱の四字に、参禅学道の事は全部つくされている。
しかるに多くの修行者はこの一心不乱ということを軽んじゆるがせにする。」
という意味です。
『般舟三昧経』からは「九十日間、坐せず臥ず常に行道し、たとい体の筋が断ち切れ骨が枯れても、般舟三昧が成就しなければ、やめてはならぬ。」という意味の言葉が引かれています。
「般舟三昧」は七日または九十日の間、休まずに口に南無阿弥陀仏の名を唱えて心に阿弥陀仏を念じることによって阿弥陀仏はじめ諸仏が現れるという教えであります。
これなども、今も修行道場で行われている七日間の摂心や九十日の安居を思わせます。
この念仏はまさに行であり、禅定を修めるのと変わりはないと言ってもよろしいものでありました。
それが日本の念仏になると大きく変わってきます。
法然上人の念仏はまだ行の意味合いが残っているように感じます。
法然上人は一日に何万遍も念仏されていたと言われます。
親鸞聖人になると救いは信心によって定まるもので、念仏はその報恩、感謝であると説かれるようになってきます。
東嶺和尚が『禅関策進』の後序を書かれていますが、そこに白隠禅師が言われたこととして、この『禅関策進』は素晴らしい書物であるが、その中に念仏を用いて自己を参究させる教えがあり、それは修行僧の潁気を奪うものなので、削除してもよいと述べられたと書かれています。
どうも白隠禅師はお念仏を好まれなかったように思われます。
白隠禅師は『遠羅天釜』 の中で「参禅は妄念・昏沈睡魔と戦うことである。
坐禅中も日常生活の間も、常に意のままにならぬ境と戦い、是非憎愛と戦い、あらゆる境と戦って、正念工夫を推し立ててゆくことである。これを続けるうちに、思わぬ省覚が得られることがあるのだ。」
と説かれています。
勇猛果敢に修行していく教えなのです。
そこで念仏はあまり説かれなくなっているように感じます。
坐禅は自力だと言われることがあります。
たしかに自分の力で気力を振り絞って悟りを目指すように思われるところがあります。
しかし、実際にやってみて、はじめはそのように気力を振り絞って坐禅に取り組みますが、その気力も尽き果てたところで、大いなる力に支えられていることに気がつきます。
呼吸ひとつ自分の力ではないことに気がつきます。
大いなるはたらきそのものだと気がつくのです。
馬祖禅師が法性三昧と説かれているところです。
その中にあってご飯を食べたり、歩いたり、呼吸したりしています。
そのような目覚めによって小さな自我を離れることができるのです。
我という小さい心が捨て放たれて大いなるいのちそのものに目覚めるのです。
自力と他力という区別はなくなるのです。
お念仏ははじめからすべてを阿弥陀様にお任せしてしまいます。
遠い来世のことを思っているようですが、お念仏するときの心にお浄土は現前していると思うのであります。
どちらも自我を離れることにおいては、変わりはないのであります。
坐禅をしてもその修行を誇るような心があっては、却って自我が強くなってしまう恐れがあります。
禅浄双修という言葉があるように、もう一度禅と念仏を見直していいかと思うのです。
先日の増上寺での対談を終えて思ったことでした。
横田南嶺