出家とは
良寛さんの和歌を書かれたものです。
何故に 家を出しと 折ふしは 心に愧じよ 墨染めの袖
という和歌であります。
この書を拝見するたびごとに、自分自身を恥じいるのであります。
先日の増上寺での対談でもはじめに出家と在家の問題について話し合いました。
増上寺の小澤憲珠台下は、ご自身のことをご謙遜なさって、妻帯をして家族もあるので、出家とは言えないのではないかと仰せになっていました。
もっとも家庭をもっていないということだけをみれば、私などは出家なのかもしれません。
たしかに学生の頃家を出て仏門に入りました。
この点は、お寺にお生まれになって、お寺のあとを嗣ぐというのとは異なるようにも見えます。
そして修行道場にはいって、文字通りの雲水修行を十数年務めていました。
その頃は収入もありませんでした。
修行道場の部屋をひとついただくだけでありました。
それも半年ごとに役目が入れ替わりますので部屋を引っ越さないといけませんでした。
自ずと荷物も少なくなるものです。
それがいつしか、宗教法人の役員ということになりました。
法人から給与をいただくようになり、それには所得税なども支払うようになります。
こうなりますと、出家というよりは、社会的存在であります。
世間の人と何が異なるのか、疑問に思われます。
独身で家庭を持たないのが出家であるなら、そのような方が世間にも大勢いらっしゃいます。
独身であるといっても私など、修行時代は、禅問答の公案を済ませることに夢中であり、その後も師家の勤めや管長の勤めや、与えられた勤めに励むことが精一杯で、気がつけば婚期を失していただけのことであります。
とりたてて自慢できるようなものでもありません。
今も修行道場の一室を与えてもらって暮らしていて、朝は三時に起きて五体投地をしてお勤めをしてというと、些か出家のように見えるだけのことであります。
出家といえるのかどうか、とても言えないと思うのが本心であります。
せめて心に愧じる思いを失ってはならないと思って良寛さんの和歌をかけていますが、それもまた慣れてしまうのです。
情けない限りだと思うばかりです。
出家したら坐禅だけに専念できると思っていたのですが、これもそうではありません。
学生の頃、大学の教授で熱心に坐禅なさっておられた先生がいらっしゃいました。
ご自身で坐禅をするために大学にいるのだと仰っていたほどでありました。
その先生から、下手にお寺に入るとかえっていろんなことがあって坐禅できなくなるぞと言われたことを思い出します。
不思議なことを言われるなと思ったのでしが、その通りでありました。
修行道場に入ってもいろんな役目が与えられます。
坐禅堂で坐禅に専念できる役目もあるのですが、私の場合はお料理の係りや、老師様のお世話をする係などが多く与えられてきました。
そうしますと、坐禅の時間がなかなかとれないのです。
そこでどうしたら仕事の合間に坐禅ができるかを工夫したものでした。
またいろんな仕事を終えて夜に坐禅するように努めたものでした。
その後も今日に到るまで、次から次へと仕事が与えられます。
そんな仕事をしながら、朝早く起きて坐禅の時間を作るとか、その合間にいかに坐禅をするかを工夫しています。
しかし、だんだんと坐禅を続けるうちに、仕事と坐禅を分けるのがそもそも間違いだったと気がつくようになりました。
あらゆる仕事が坐禅です。
坐禅の延長のなかに仕事があると分かってきました。
これが、仕事の合間に念仏するのではなく、念仏を称えている中で仕事をするのだと説かれるの浄土の教えと一致するのであります。
そうしてみると、在家の方が仕事をしながら工夫して坐禅の修行をするのと違いはないと思うのであります。
また、禅は難行だと言われたのですが、決してそうではないと思います。
たしかに今の時代で薪を割ってご飯を炊いて、畑を耕して食べているというと修行しているように思われますが、これも昔の農家の暮らしそのものであり、特別なものではありませんでした。
ただ今の暮らしが便利になっただけのことです。
朝が早いといっても、お豆腐屋さんや新聞配達の方や、早い方は大勢いらっしゃいます。
朝掃除をするといっても寺の境内を掃くのですから、通勤電車に乗って仕事に行かれる方がよほど難行であります。
そう考えてみると何が出家なのか、何が修行なのか、分からなくなります。
分からなくなるというのは分けることができなくなるということです。
そうなると、どんな立場でも修行ができると思うのであります。
佐々木閑先生の『出家的人生のすすめ』(集英社新書)には、
「出家とはいったいなにか。それはひとことで言うなら、「世俗の暮らしでは手に入れることのできない特別なものを求めて、世俗とは別の価値観で生きる世界へとジャンプすること」です。」と書かれています。
また、「世俗の生活を送っていたのでは手に入らない特別なものを手に入れるため、世俗的喜びを放棄して特殊な生活へと転身した人たち」を「出家」だと説かれています。
その定義に随えば、私などはただ坐禅だけを勤めて今日まで生きてきて、いまも坐禅の探求にすべてをかけているので、いささか出家的であるといえるかもしれないという程度のことであります。
そんな暮らしを今もさせてもらっているので、有り難い、もったいないという思いで暮らしているのです。
横田南嶺