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臨済宗大本山 円覚寺

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2026.01.30
今日の言葉

慚愧

仏教の事物のあり方を整理したものに、五位七十五法というのがあります。

『倶舎論』に説く説一切有部の教えをまとめたものです。

その中に心処法といって、心のはたらきが説かれています。

心のはたらきには、「大地法」といって「善悪の性質や煩悩のあるなしにかかわらず、あらゆる心地に属する心作用」があります。

それから「大善地法」といって、「善の性質をもつあらゆる心地に属する心作用」があります。

その反対に、「大煩悩地法」といって「煩悩に染まったあらゆる心地に属する心作用」などが説かれています。

心の良いはたらきには信心があります。

仏法や真理を信じる心です。

それから精進があります。

善行に励む心です。

それから心の平静があります。

平穏な心です。

そして「慚」といって「自らを振り返り、過ちを恥じる心」があります。

それから「愧」は「他者に対して、過ちを恥じる心」です。

そして「無貪」は、むさぼらない心です。

「無瞋」は怒らない心であり、慈悲の心です。

「不害」は他を害さない心、非暴力です。

そして「軽安」は、心身が軽やかで安らかなことです。

「不放逸」は、なまけず、専心に善を行うことです。

慚愧の慚と愧とは、よい心のはたらきなのです。

『広辞苑』には、「(中世にはザンギ)

恥じ入ること。「―に堪えない」

②悪口を言うこと。そしること。」
と解説されています。

岩波書店の『仏教辞典』には、

「恥じること。自らがおかした悪行を恥じて厭い恐れること。<慚>は自らをかえりみて恥ずかしく思うこと、<愧>は他人に対して恥ずかしく思うこととされる。

なお、わが国でこの語の中世的用法として<慚愧す>の形で非難する意に用いられた例が散見するのは、他人の行状ながらわが事のように恥ずかしく思うの意からの転か。」と解説されています。

慚愧がそしるという意味にも使われるのです。

『遺教経』には、
「慙恥(ざんち)の服は諸の荘厳に於いて最も第一と為す」
という一語があります。

心に恥ずかしいと思う、申し訳ないと思う心こそが、もっとも美しい荘厳なのだという意味です。

十牛図を講義していて、第八番目の人牛倶忘のところを読んでいました。

「凡情脱落し、聖意皆空ず。」というところで、人も牛もどちらも忘れたところです。

「迷いの心がすっかり脱け落ちて、悟りの心もすべてなくなった」のです。

絵では一円相で表しています。

頌があります。

頌に曰く、
鞭索(べんさく)人牛尽く空に属す。
碧天寥廓として信通じ難し。
紅炉焰上、争(いかで)か雪を容れん。
此に到って方に能く祖宗に合(かな)う。

という頌です。

筑摩書房『禅の語録16 信心銘・証道歌・十牛図・坐禅儀』には、

「鞭も手綱も、人も牛も、すべて姿を消し、青空だけがカラリとして、音信を通ずるすべもない。
真赤な鎔鉱炉の焔の中に、雪の入りこむ余地はなく、ここに達してはじめて、祖師の境地と一つになることができる。」

と現代語訳があります。

山田無文老師は、禅文化研究所の『十牛図』に、

「真赤に燃えた炉の上には、なんぼ雪を入れても溶けてしまう。何もかも溶けてしまって、後には何も残らない。「善い」という雪が落ちても溶けてしまう。「悪い」という雪が落ちても溶けてしまう。迷いも悟りも、悪魔も仏も、何もかも溶けてしまう。そういう境地が人牛俱忘というところである。」
と提唱されています。

その樹に和韻が残されています。

「慚愧(ざんき)す、衆生界已に空ず。
箇の中の消息、若為(いかん)が通ぜん。
後に来たる者無く前に去(ゆ)くもの無し。
未審(いぶかし)誰に憑(よ)ってか此の宗を継がん。」

という頌です。

これも現代語訳では、

「やれありがたや、衆生の世界はとっくに空となった、そこのところの消息を、どうして知らせることができよう。
あとに来る者もいなければ、先に行く者もいない、いったい誰にたのんでこの境地を継いでもらったものであろう。」
と書かれています。

この「慚愧」は「やれうれしや、かたじけなや」という意味だと註釈には書かれています。

「慚愧慚愧と繰り返すこともある。『祖道集』巻十五、東寺和尚の章、その他に見える」とも書かれているのです。

佛光録にも「慚愧」という言葉が出ていて、そこのところに今北洪川老師は、「ああかたじけない」と書き入れされています。

慚愧にはありがたい、かたじけないという意も含まれているということです。

慚愧について考えてみると、私たちは自分の過ちや煩悩に気づいていません。

気がついていない状態が迷いなのです。

それに気づいてこそ慙愧が生まれます。

この「気づいた瞬間」は、迷いから一歩抜け出した証でもあるといえます。

とりわけ浄土門では、自らの煩悩に気がつき深く慚愧する者こそが、救いに預かると説かれます。

自分自身をどうしようもないものだと慚愧する心が、そのまま救いに預かっているのだという安心につながります。

そこで表面的は恥を知るのですが、それは同時に安堵でもあります。

そうすると有り難いという意味合いも出てくると察するのです。

「慚愧(ざんき)す、衆生界已に空ず。」というのは、今まで自分中心に物を見ていてすべてを実体視していたけれども、その誤りに気がつき、自分の愚かさを知り、恥を知ってみると、有り難いことにこの迷いの世界はもともと空であったのだということになろうかと思ったのであります。

慚愧を洪川老師が「かたじけない」と註釈されましたが、

「かたじけない」には「恥ずかしい。面目ない」という意味と、「(過分の恩恵や好意を受けて)身にしみてありがたい」という意味もあります。

慚愧という言葉は、恥を知ると共に、かたじけないという意味があり、そして身にしみて有り難いという、とても深い意味があると学んだのでした。

 
横田南嶺

慚愧

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