雲を離れた月のように
第七の忘牛存人のところを講義しました。
「法に二法無く、牛を且(しばら)く宗と為す。
蹄兔(ていと)の異名(いみよう)を喩え、筌魚(せんぎよ)の差別を顕す。
金の鑛(こう)を出るが如く、月の雲を離るるに似たり。」
というところです。
蹄兔の蹄はワナであり、蹄兔でワナと兔です。
筌魚は、筌は魚を捕る道具で、筌魚で道具と魚のことです。
真理が二つあるわけでないが、かりに牛を主題としたのであり、それはワナと兎が別ものであるのと同じく、また筌と魚の別があるようなものだ。
兎や魚を捕るためにワナがいりますが、捕れたらワナは不要です。
真理は、純金が金鉱からとり出され、月が雲をぬけでるのに似ているというのです。
鉱というのは、あらがねであり、まだ精製してない、金属を含んだかたまりのことです。
鉱石から金をとり出したら、もうもとの鉱石ではなくなります。
月が雲から出たら、もう雲のかげになることはありません。
それに因んで『法句経』の話をしました。
『法句経』の第一七三番に
「以前には悪い行ないをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。ー雲を離れた月のように。」
という言葉があります。
これはアングリマーラの話がもとになっています。
アングリマーラはもともと、賢く温厚な青年でありました。
名をアヒンサカ(「害なき者」の意)といいました。
幼少のころから才知に恵まれ、学問の道に進むため、ある著名な婆羅門のもとに弟子入りしました。
アヒンサカは師の期待に応え、他の弟子たちをしのぐほどの成績を上げました。
それがあろうことか、性格が素直で見た目も美しかったので、師の妻に言い寄られてしまいます。
当然のこと、断ったアヒンサカを妻は怨んで、自分がアヒンサカに辱められたと夫に告げました。
婆羅門の師は、アヒンサカに復讐しようとして、アヒンサカに人殺しの罪を犯させて刑罰に遭うようにと考えました。
婆羅門はアヒンサカに修行の仕上げとして、「百人の人間を殺し、その指を切り取って持ち帰れ」と命じたのでした。
アヒンサカはこれを疑うことなく、師への絶対的な信頼から、その命に従ってしまうのです。
こうしてアヒンサカは、人を殺しては指を切り取るという行為を重ねるようになりました。
首にかけられた指の数が増えるにつれ、人々は彼を恐れ、「アングリマーラ(指の首飾りを持つ者)」と呼ぶようになりました。
百人目になんとアングリマーラは母を殺めようとします。
そのとき、お釈迦様はアングリマーラを救うため、あえてその前に姿を現しました。
怒りと狂気に満ちたアングリマーラは、お釈迦様を追いかけますが、どれほど走っても追いつけません
思わず「止まれ!」と叫ぶと、お釈迦様は静かに答えました。
「私はすでに止まっている。止まっていないのは、あなたのほうだ」と。
この言葉は、アングリマーラの心を打ち砕きました
そこで目が覚めてアングリマーラは武器を捨て出家し、深い懺悔と修行の日々に入りました。
弟子となって修行していたアングリマーラを時の王様はとらえようとしました。
しかしお釈迦様は彼を引き渡しませんでした。
しかし、改心したからといって、過去の業が消えるわけではありません。
村に托鉢に出た折には、人々は彼を石や棒で打ちました。
傷だらけで帰ってきたアングリマーラにお釈迦様は、我が弟子の中、法を聞いて悟る智慧を持てるのは彼だと仰いました。
そこでその時に説かれたのが、「以前には悪い行ないをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。ー雲を離れた月のように。」という教えでした。
心の汚れは取り除くことができても、実際に犯した業の報いは受けなければならないのです。
このアングリマーラの話は禅の公案にもなっています。
『宗門葛藤集』にこんな話があります。
禅文化研究所『宗門葛藤集』の道前慈明老師の現代語訳を参照します。
「アングリマーラがある時、托鉢して市内に入って、ある長者の家に到り、その家の婦人が難産しているのに立ち会った。長者が云うには、「沙門は仏弟子であるからには、我が家の難産を救う、何か良い手だてが御座いませんか」と。
アングリマーラは、「私はまだ仏道に入ったばかりで、そのような良い手だてを知りません。一寸行って仏に問うて来ますので、戻ってからご報告いたしましょう」と云って、直ちに仏の所に戻って以上の話を報告申し上げた。
仏は云った、「お前さんは速やかに帰って言いなさい、『私は仏教徒として生まれ変わってより、これまで一度も殺生したことはありません』と」。アングリマーラは仏に教えられた通りに、帰って長者に告げた。長者の妻はそれを聞いて直ちに出産し、母子ともども無事であった。」
というのです。
人を殺生しないというのは慈悲の心のおおもとです。
アングリマーラはお釈迦様にであって、慈悲の心の目覚めたのでした。
慈悲の心に目覚め、世の中が慈悲の心に満たされたならば、安らかに子を産むこともできると説いているのです。
仏典にもこんな恐ろしい話もあります。
しかし、恐ろしい心を持ちながらも、慈悲の心に目覚めることもできることを説いてくれています。
横田南嶺