「ただ」の禅
これで第5回となります。
第一回では、私たちの伝統の世界で言い伝えられてきた禅宗の話が虚構であることを、敦煌文献の発見によって明らかになったことを学びました。
第二回では、まだ禅宗と称せられる以前の達摩大師や慧可大師について学びました。
二入四行についても学んだのでした。
第三回では、東山法門と言われたり北宗と呼ばれる系統の教えについて学びました。
伝統の世界では、傍流とされていた神秀禅師の系統が、則天武后の帰依を受けて、当時の正統派だったことを学びました。
第四回では神会禅師について学びました。
この神会禅師という方が、慧能禅師こそが正統であり、神秀禅師を傍流としたのでした。
そして今回は神会禅師以降の禅について学びました。
馬祖禅へと展開する前の段階を学んだのです。
今回の講義のはじめに、土屋太祐先生の『法眼―唐代禅宗の変容と終焉』(臨川書店・唐代の禅僧12)という二〇二四年に出版された本の引用を紹介しながら、これまでの禅宗史のまとめをしてくれました。
私も資料を拝見して書架から土屋先生の『法眼』をとり出して読み直していました。
改めてとてもよくまとめられた良書だと感じいりました。
小川先生がはじめに引用されたのは次のところでした。
「……たとえば、七世紀の中頃に現れ、その後の禅宗の源流となった東山法門、あるいは、その流れを汲むいわゆる「北宗」の文献では、「心」のなかに「仏性」を見ようとする考えがすでに色濃く表れている。しかし、これらの実践は、あくまで禅定などの修行を通じて現実の「心」がもつ汚れた煩悩を取り除き、そのあとで、心の清浄なる本質としての「仏性」を見ることを目指した。そこでは、常に流動しつつ現実にはたらきでている心と、その奥底にあって静まっている本性=仏性が、明確に区別されている。」
というのです。
これはとても分かりやすいのです。
土屋先生の著書には分かりやすい図もついています。
常に流動して現実にはたらく心は排除すべきというのです。
それに対して、神会禅師の教えはまた異なります。
土屋先生の書物には、
「神会の考えによれば、空寂なる心の本性(体)のうえには、それを自覚する智慧のはたらき(用)が常に存在し、活動している。このはたらきは常に心の本質を「見」て、「知」っており、我々はこのはたらきを通して「見性成仏」を実現できる。」
と書かれています。
そして「神会が言うところの「用」は、主要には内在的な「空寂なる心の体」を「見て」「知る」はたらきであり、馬祖が述べるような、外的対象に対する感覚作用、あるいは外界に作用するような動作ではなかった。」
というのです。
ここあたりまで前回学んだことでした。
馬祖禅の特徴として、自己の心が仏であり、その自己の感覚や動作などのはたらきはすべてそのまま仏作仏行であるという教えに至るには、まだ隔たりがあります。
どうして馬祖禅師のような教えへと展開したのかが気になります。
その鍵が保唐寺無住禅師にあると学んだのでした。
無住禅師の教えを筑摩書房『禅の語録3 初期の禅史Ⅱ』から柳田聖山先生の現代語訳を引用します。
「男がひとり高らかに土手の上に立っていた。
数人がつれだって通りかかる。
高いととろに男が立っているのをみて、たがいに話しあう、へあいつはきっと犬にはぐれたのだろ。〉
一人がいう、〈連れにはぐれたのだろう。〉
一人がいう、〈涼んでるのだろう。〉
三人は言いあってきまらぬ。
やってきて岡の上の男にたずねた、〈犬にはぐれたのか。〉答え、〈はぐれぬ。〉さらにたずねる、〈連れにはぐれたのか。〉
答え、〈連れにはぐれたのでもない。〉
さらにたずねる、〈涼んでいるのか。〉
〈涼んでいるのでもない。〉
〈いずれでもないからには、どういうわけで高らかに岡の上に立っている〉
答え、〈ただ立ってるだけさ〉と。
和上は悟幽師に話す、
「無住(わし)の禅は、沈みもせず浮きもせず、流れもせず注ぎもせず、しかも確かに働きがある。
働いて生れたり滅したりするものがなく、働いて汚れや清浄というものがなく、働いて是や非というものがない。
ピチピチととびはねて、どんなときも禅ならざるはない。」
という教えであります。
「ただ立ってるだけ」というのは「只没(しも)に立つ」という言葉を訳しています。
また「「起心は即ち是れ塵労、動念は即ち是れ魔網。只没に閑にして、沈まず浮かず、流れず転ぜず、活鱍鱍、一切時中総て是れ禅なり」という言葉も教えていただきました。
こちらも『初期の禅史Ⅱ』には
「「心を起こすのは塵の動きである。
念を動かすのは魔網にほかならぬ。
ぼかんとしているだけのことだ。
そうすれば沈みもせず、浮きもせず、流れもせず、転がりもせず、ビチビチとはねまわって、いつだって禅ならぬものはない。」
と訳されています。
「只没に閑か」であり、それでいて「活鱍鱍」と溌剌としているのです。
一見すると相矛盾しているように見えますが、これが同時に成り立っています。
おそらく体験から出ている言葉だと察します。
閑かであって、そして生き生きとしているというのは、私などにはなるほどと共感するのです。
「一切時中総て是れ禅なり」とはずいぶんと発展した言葉です。
小川先生は、この無住禅師の思想について、あまりにも自由に行き過ぎた傾向があるので、その振れ幅を抑えてもっと穏当にしたのが馬祖の禅だと解説してくださっていました。
馬祖禅に至る経緯に無住禅師の教えがあったことを学んだのでした。
横田南嶺