神々もうらやむ
今年は、昨年に鵬雲斎宗匠がお亡くなりになったので、裏千家の稽古始めとして行われて、私のような来賓は招かれないのであります。
喪中ということであります。
やはり新年の初釜というとお祝いとなるからであります。
また例年この日は今北洪川老師のご命日でもあります。
初釜などに招かれると、干支にちなんだしつらえがなされるものです。
今年は丙于ということで、午にちなんだ物が選ばれることが多いのです。
午にちなんだことについてはあれこれと今まで書いてきました。
『法句経』の九四番には「御者が馬をよく馴らしたように」という表現が出ています。
全文は岩波文庫の『ブッダの真理のことば 感興のことば』には、
「御者が馬をよく馴らしたように、おのが感官を静め、高ぶりをすて、汚れのなくなった人ーこのような境地にある人を神々でさえも羨む。」
と訳されています。
講談社学術文庫の友松円諦先生の訳による『法句経』には、
諸根(こころ)の寂静(しずか)なること
まことよく御者に馴らされし
馬のごとく
慢(たかぶり)をすて
諸漏(まよい)をつくせる
かかるひとを
神々もうらやむなり
となっています。
春秋社の『仏の真理のことば註(二)―ダンマパダ・アッタカター』にはこの偈にちなんだ話が書かれています。
この偈では神々もうらやむということが説かれているのです。
どのような神々にどうして敬われたのかが書かれています。
これは大力ッチャーヤナ(迦旃延)上座の事なのです。
お釈迦様が雨安居の大修了式のために、鹿母講堂の下階で、大声聞弟子たちに囲まれて坐られていました。
その時、大カッチャーヤナ上座はアヴァンティという中西方インドにある国に住んでいました。
そしてその尊者は遠方から来るのだけれども必ず聞法するので、それで大上座たちは坐るにも大カッチャーヤナ上座のために席を空けておいて坐ったというのです。
熱心に聴聞に通うお弟子だったのでした。
そこで、神々の王·帝釈は二つの天界(欲界と色界)から神の会衆と共にやって来て、天上の香·花環などをもって大師に供養して立っていました。
しかし大カッチャーヤナ上座の姿が見えませんでした。
そこで帝釈天は「私の聖人様は何でお見えにならないのか。しかし、もしお出になればよろしいなあ」と願ったのでした。
上座はもうその刹那にやって来て、自分の席に坐りました。
春秋社の注釈書には「帝釈天は上座を見て両方のくるぶしを堅くつかんで、
「よいかな。実に私のお聖人はお出になった。私はお聖人がお出になることだけを心待ちするのだ」と言って、両手で両足をさすって、香·花環などをもって供養して礼拝して一方に立った。」
と書かれています。
両手で足をさするのですが、原文には両足のくるぶしを堅くつかむとなっているようです。
足を礼拝するというのは最高の敬意を表すのです。
しかし、大勢のお弟子の中でもこの大カッチャーヤナ上座を礼拝するので、他の比丘たちは気を悪くしたようです。
帝釈天は、大カッチャーヤナ上座の顔を眺めて尊敬供養を行ない、その他の大声聞弟子たちにはこのような尊敬供養を行なわないのでいた。
大カッチャーヤナ上座を見ると急いで両くるぶしをつかんで、
『よいかな。実に私のお聖人はお出になった。私はお聖人がお出になることだけを心待ちにするのだ』と言って、両手で両足をさすって、供養をし、礼拝したのです。
そこで他の弟子達が不満なのをご覧になってお釈迦様は、
「比丘たちよ。私の息子である大カッチャーヤナと同じく諸々の感官の門が守られている比丘たちは、神々にも人間たちにももう愛されるだけである」
と結論に結びつけて、法を示しつつこの偈を誦えられたのでした。
春秋社の注釈書には、
「その人の諸々の感官が寂止にいたっており、
御者によってよく調御された馬たちのように
自負心が捨てられ漏煩悩のない
そのようなその人に神々も親愛の情をいだく」となっています。
御者がよく馬を飼い馴らすように感覚が静まっている者には天の神々も親愛の情をいだくということなのです。
ここでいう神々というのは、一神教で説かれるような絶対者ではありません。
帝釈天というのは、仏教において仏法を守護する天部の最高位クラスの神として位置づけられています。
もともとインド神話にあった神インドラが仏教に取り入れられたのです。
仏教では、帝釈天は忉利天(とうりてん)の主であり、三十三天の王とされます。
天部とは、仏や菩薩のように悟りを完成した存在ではありません。
天にも欲界、色界、無色界がありますが、帝釈天のいる三十三天は欲界です。
欲界でも下から二番目です。
須弥山の頂上にあたります。
そこに住んでいて仏法を信受し、護持する守護神なのです。
そんな神々も大カッチャーヤナ上座のような、「おのが感官を静め、高ぶりをすて、汚れのなくなった人」のことをうらやむのです。
感覚を刺激するものを求めて暴れ馬のように走り回ることはしないのです。
そして自分を誇り高ぶる慢心もありません。
心は御者が馬を飼い馴らすように調えられていて、安らいでいるのです。
「おのが感官を静め、高ぶりをすて、汚れのなくなった人」は神々からも敬われ守られるのだとも言えます。
横田南嶺