一日作さざれば
三十一年となります。
もうそんな歳月が経ったのかと思います。
謹んでお亡くなりになった方のご冥福をお祈りします。
一月は正月の行事に続いて、法要が続きます。
十日が臨済禅師のご命日の法要であります。
十六日は今北洪川老師のご命日の法要があります。
そして十七日は百丈懷海禅師のご命日の法要であります。
今北洪川老師は、江戸の終わり、文化一三年(一八一六)に大阪の福島でお生まれで明治二五年(一八九二年)にお亡くなりになっています。
もと儒学を学んでお若くして中之島に塾をお開きになっていました。
しかし学問だけでは飽き足らずに、出家して禅の修行に打ち込まれました。
相国寺の大拙老師について参禅し、更に備前曹源寺の儀山禅師について修行をなされました。
安政六年(一八五九)四四歳で岩国永興寺に入寺なされます。
そこで修行僧達を指導なされて、また『禅海一瀾』という書物を書かれています。
慶応二年(一八六六) 五一歳のときに、第二次長州征伐が起きます。
まさに戦乱のただ中でしたが、洪川老師は「確として動かず」で、遺偈まで認められました。
明治の新政府になって明治八年(一八七五)六〇歳の五月の時に、東京十山総黌大教師に選任されました。
臨済宗の学校であります。
同じ歳の十一月に円覚寺住持職に任命されました。
更に明治十年(一八七七)六二歳の時に、八月で学校を退黌なされて、九月円覚寺に正続院禅堂を開かれています。
そこで修行僧の指導をなされました。
更に正伝庵を択木園と称し東京の一般の方々が参禅できるようになされたのでした。
そして明治二五年(一八九二)一月十六日七七歳でご遷化なされます。
お亡くなりになった時に、たまたま居合わせたのが鈴木大拙先生でありました。
まだこの頃大拙という名前はありません。
青年鈴木貞太郎であります。
洪川老師は、そのお住まいの隠寮でお倒れになって遷化されました。
『激動期明治の高僧 今北洪川』には次のように書かれています。
「不思議にも、自分は老師の御遷化のときに、ちょうど隠寮に居合わせた。
一月十六日の朝、そのときの侍者であった加藤東幸師と何か話していたとき、奥の三畳――これは老師の居間、机のほかに何か箪笥のようなものもあって、狭くるしい部屋――そこから、何か物の倒れるような音がした。
東幸師は、「そりゃ」と言って奥へ飛んで行った。
この音は、老師が便所から帰られてその三畳へおはいりになろうとして、倒れられたときのものであった。
そのとき箪笥の角かで額の一方を打たれたと見え、少し疵があった。
老師はそれきりこの世と絶縁せられたのである。
侍者はさっそく門前のお医者さんの小林玄梯を呼んだ。
座敷に床を敷いて老師をお寝かし申し上げ、 玄梯さんの診察を乞うたが、彼は脈をとり、胸へ聴診器をあてて見たが、「もうこときれた」と宣告した。」
と書かれています。
またこの一月十六日は太田晦巌老師のご命日でもあります。
晦巌老師は昭和五年から十年まで五年間、円覚寺の管長と僧堂の師家をお勤めになっています。
明治九年(一八七六)埼玉県川島のお生まれで、釈宗演老師について修行をなされています。
宗演老師の法を嗣いで、品川の東海寺のご住職をお勤めになっていました。
その後昭和五年円覚寺に住されました。
昭和十年に大徳寺に移られて、大徳寺の管長と僧堂の師家をお勤めになっています。
昭和二十一年の一月十六日にお亡くなりになったのです。
洪川老師と同じご命日なので一緒に法要を務めています。
更に十七日は百丈禅師のご命日であります。
『禅学大辞典』によれば、百丈禅師は西暦七四九年にお生まれで、八一四年にお亡くなりになっています。
洪州の大雄山に百丈山大智寿聖禪寺を立ててその開祖となっています。
『禅学大辞典』には「ここで大いに禪風を鼓吹した。その著〔百丈古清規〕は、ただ序のみを存するにすぎないが、彼が禅林清規の開創者であることは中国禅宗史上に忘れることができない。
以来禪は、一層中国の風土生活に即したものになっていった。」
と書かれています。
小川隆先生の『禅僧たちの生涯』(春秋社)には、百丈禅師が作務に励まれていたことが書かれています。
そのところを引用させてもらいます。
『祖堂集』巻一四、百丈章にある言葉です。
小川先生の現代語訳を参照します。
「百丈禅師がふだんから厳しく高潔な志操をたもっておられたことは、喩えようもないほどであった。
日々の労働では、必ず修行僧たちに先んじて励まれた。
役職の僧が見るに忍びず、ひそかに作業の道具を隠し、師に休息を願うと、師はおおせられた。
「わたしには徳が無い。どうして人さまばかり働かせられよう?」
そして寺中くまなく道具をさがしたが見つからず、そのまま食事を摂ることも忘れてしまわれた。
ここから「一日作さざれば、一日食わず」という言葉が生まれ、天下にひろく知られるようになったのであった。」
というものです。
小川先生は「百丈自身が「一日作さざれば、一日食わず!」と高らかに宣言し、抗議のために断固食事を拒否した、という話ではありません。
農具を探すうちに食事を摂るのを忘れてしまい、そこからこの言葉が生まれて、人口に膾炙するようになった、という書き方です。」
と書かれています。
畑を耕したり、掃除をしたり、薪を割ったりする労務を、禅宗では「作務」といいます。
禅の修行で、坐禅や看経と共に作務を大事にするのはこの頃から始まっているのです。
横田南嶺