ちらつき
このようなことは基本的にはお断りするのですが、大事な方が間に入っての依頼でしたので、承ったのでした。
朝四時の読経から撮影が入ります。
カメラマンの方が撮るのですが、ライトもつけずに暗い中を撮ってくれていました。
あれで映っているのか心配になるほどでした。
修行の邪魔にならぬようにという配慮かもしれませんし、ふだんのありのままの修行の暮らしを撮ろうということかもしれません。
いずれにせよ、撮影する方も、私たち撮影される方もけっこうたいへんでありました。
朝の読経が終わって、禅堂で坐禅をしているところも撮ってもらいました。
これも薄暗い中であります。
禅堂の外から撮ろうとなされていたので、どうぞ堂内にお入りになってくださいとお伝えしました。
こちらも気になってしまうものですが、これが気になるようではまだまだと思って撮影されていました。
独参のところは形だけを撮ってもらいました。
そしてお粥をいただくのです。
私も参加して修行僧と共に伝統的な作法に則っていただきました。
お粥を自分の食器である持鉢によそって無言でいただくのです。
そのあと境内の清掃をして、修行僧に対する提唱の場面を撮影しました。
これも伝統的な儀式であります。
まず開板が打ち鳴らされます。
そして太鼓がなります。
その太鼓の音に合わせて出頭します。
本尊様の前で三拝して、講座台という高い台の上にあがります。
その前に見台を置いて語録を講じます。
講座のあとは作務の風景を撮りました。
薪割りもするというので私も参加していました。
だいだい普段だと何か予定が入るのですが、その日は撮影のために空けていたので、良い運動だと思って薪割りに汗を流しました。
まだまだ若い者に負けないくらいの薪を割ることができます。
寒い日でしたので、体も温まります。
そして休息になりましたので、これまた修行僧と一緒にお茶をいただいていました。
午後からは少し撮影のスタッフの方と懇談をさせてもらっていました。
夕方からは総茶礼といって、修行僧皆で形式的にお茶をいただく場面を撮りました。
入制の摂心に入る前とか、歳旦とか時々に応じて行っている儀礼であります。
その翌日は托鉢の場面を撮ったのでした。
なかなかたいへんなことでありました。
それでも撮影なさる方もよく心得てくださっていて、こちらの修行の妨げにならないようによく配慮してくださっていました。
提唱の場面を撮るというので、いちおう臨済録を講じることにしました。
こちらは、単に撮影のためだけですので、音声は関係ないのです。
それでも何かしゃべっていないと仕方がないので、少し臨済録の一節を取り上げてお話したのでした。
これも別段何の準備もしませんでした。
提唱の直前になって一応みんなで開くページくらい統一しておかないといけないと思って、何丁を開くように指示しておきました。
パッと開いたところにしたまでのことです。
それが以下の内容の箇所でありました。
こちらは岩波文庫『臨済録』にある入矢義高先生の現代語訳を引用します。
「諸君、君たちはそれをちらつかせている当体を見て取らねばならない。
それこそが諸仏の出どころであり、あらゆる修行者の終着点なのだ。
君たちの生ま身の肉体は説法聴法もできない。
君たちの五臓六腑は説法も聴法もできない。
また虚空も説法聴法もできない。
では、いったい何が説法聴法できるのか。
今わしの面前にはっきりと在り、肉身の形体なしに独自の輝きを発している君たちそのもの、それこそが説法聴法できるのだ。
こう見て取ったならば、君たちは祖仏と同じで、朝から晚までとぎれることなく、見るものすべてがビタリと決まる。
ただ想念が起こると知慧は遠ざかり、思念が変移すれば本体は様がわりするから、迷いの世界に輪廻して、さまざまの苦を受けることになる。
しかし、わしの見地に立ったなら、〔このままで〕極まりなく深遠、どこででもスパリと解脱だ。」
というところです。
ちらつきというのは、その前のところで「法性の身」「法性の土」とか説いていることをさします。
抽象的な概念にとらわれてはいけないということを言っています。
原文では「光影を弄する底の人」となっています。
それを入矢先生が「ちらつかせている当体」と訳されたのでした。
「有りと見て無きは常なり水の月」という句があります。
池に映っている月を見ても、それは実体のあるものではありません。
池の表に写っている像にしかすぎません
ところが「猿猴、月を捉う」という言葉や、お猿が池に写った月を取ろうとしている絵がありますように、お猿さんは池に写った影がほんとうにあると思って取ろうとしてしまいます。
その結果池に落っこちてしまうというのです。
人間は、池に写ったのは映像にしかすぎない、ちらつきでしかないと分かっているので、まだお猿よりはましなのです。
ところがその人間がこの頃は、小さな画面に写ったちらつきに振り回されているのです。
SNSやら、動画やら、明らかにちらつきにしかすぎないはずなので、振り回されてしまっています。
これでは池に写る影をとらえようとしているお猿を笑うことができません。
それから今こうして現に目の前に写っているのもみな心の鏡に映る映像であり、ちらつきにしかすぎないのです。
撮影が入る、カメラに撮られる、カメラマンが前にいる、そんなものもみんな映像であり、ちらつきなのです。
そのちらつきに振り回されては、お猿を笑えなくなるのです。
そのちらつかせている本体を見るのです。
何者が見ているのか、聞いているのか、話しているのか、その本体こそ仏様の源でもあります。
肉体が聴いているのでもなく、内臓が聴いているのでもありません。
空間が聴いているのでもありません。
姿形もなく、この世界一杯に満ち満ちて、しかも生き生きとはたらいているものです。
これを見てとったならその人は祖師や仏様と同じなのです。
そんな話を、講本を開いて思いついて話をしていました。
なんの支度もせずに思いついて話しただけでしたが、これがどういうわけか、いい話でしたと何名かの方が言ってくれていました。
不思議なものです。
一所懸命に何日もかけて資料を集めて原稿を書いて話をすることもありますが、こうして思いついて話をしたのがいいというのです。
たいへんな撮影でありましたが、その日は他の予定を入れずにいましたので、修行僧と共に食事をし薪割りをし、お茶を飲んで、これはこれで貴重な日となったのでした。
横田南嶺