驚きと感動
令和二年七月に九十二歳でお亡くなりになっています。
加賀の大乗寺におられて、総持寺の貫首にもなられています。
総持寺の貫首は確か五年ほどでご退任されて、福井県越前市に御誕生寺というお寺を再興されています。
この方のお師匠さんが渡辺玄宗禅師という方です。
総持寺の貫首もお勤めになった禅師です。
この渡辺禅師は、円覚寺の宮路宗海老師についても修行された方であります。
宗海老師からは印可を受けておられたと聞いています。
円覚寺とはそんなご縁もあります。
私は板橋禅師に一度お目にかかったことがありました。
先日、板橋禅師の『香抄録 閑々堂』という書物を調べていました。
坐禅について書かれていました。
一部を引用させていただきます。
坐禅の大事なことをよく説いてくださっています。
「坐禪とは足を無理に組み合わせ、ジーッと精神統一する暝想法と理解されがちである。たるんでいる精神にカツを入れる精神修養とも思われている。たしかにそのように誤解される要素をふくんでいるが、本質的にちがう。」
とまず書かれています。
これは今でも坐禅はそのようなものだと思われていることが多いと思います。
足を組んで、痛くても我慢して精神を統一していると悟りが開けると思われていることも多いと察します。
また警策という棒で叩いて精神を鍛えると思われることも多いでしょう。
板橋禅師も「たしかにそのように誤解される要素をふくんでいる」とお認めになっていますように、そう思われることも多いのです。
しかし板橋禅師は、それは「誤解」だというのです。
本質的に違うというのです。
ではどういうことなのか、板橋禅師は、更に
「坐禪は自然を学ぶことである。ごくあたりまえに息づいている自分の確かさを、おどろき知ることにある。しあわせのありかをヨソに求めて、うろたえていた自分の愚かさに気づくことである。」
と実に端的に説いてくださっています。
自然とはありのままということでしょう。
本来のもってうまれた本質のままであります。
なにも特別な技能を付け足すことではありません。
長年修行して秘伝のようなものを授かるというのでもありません。
「ごくあたりまえに息づいている自分の確かさを、おどろき知ることにある」とは至言です。
あたりまえに息づいているのです。
オギャーと生まれてから息を引き取る時までひとときも絶えることなく息が行われています。
これは誰からも教わったものではありません。
習い憶えた技術ではありません。
よしんば呼吸法を習ったところで、呼吸法でがんばっているのは、ほんの一部にしか過ぎないのです。
更に板橋禅師は具体的に説かれます。
「水の入っているコップを机の上にチョンと置けば、水の性にしたがって沈澱するものは沈むし、澄むものはすむ。手ごころを加えて水を静める必要はない。坐禪も同じようなもので、腰のすわりをキチンと安定させ、背すじをピンとのばし、からだごと投げ出してドッカリ坐っている。
身も心もあけはなして悠然と坐っていることが肝心である。
もともと人間のからだは、微妙なセルフコントロール(自己制御)つきのすぐれた機能体である。私たちはふだん、この精巧な機能体を自分勝手にムチャな運転をし、酷使している。その危険信号が、からだの痛みや心の苦しみとなって、赤ランプが点滅する。」
と説かれています。
「微妙なセルフコントロール(自己制御)つきのすぐれた機能体」とはこれまた独自の表現ですが、法のありようをよく説かれています。
これは法なのです。
なにも作為することなしにきちんとはたらいています。
寒くなってきても、だいたい体温は三十六度あたりになるように自ずと調整されています。
絶えず免疫の機能がはたらいてくれています。
食べたものがきちんと排泄されるようにはたらいています。
見事な働きをずっと為し続けています。
この精明なるはたらきを「心」とも言ったのです。
「法」ともいいます。
この心こそが仏なのです。
このはたらきこそが仏そのものです。
誰が造ったものでもなく、修練によって得るものでもないのです。
はじめから有り続けています。
しかし板橋禅師が仰るように、このことに「おどろき知る」体験が大事なのです。
おどろき知るとは感動することでもあります
板橋禅師は更に「坐禪はこの機能体のセルフコントロールのままに、スムースに自活動させておくことである。」とも説かれています。
このはたらき、機能に任せるのです。
そこに喜びがあり感動があります。
ただ漫然と坐っていたのでは、そこに喜びも感動もないでしょう。
そうかといって無理矢理苦しめるようなことをして、終わってやれやれというのでもありません。
今までの怠惰な暮らしからすれば、辛苦と感じることもあるかもしれませんが、本来の尊さの自覚にほかならないのです。
臘八という修行のおかげで、私も毎朝二時から修行僧と共に坐禅させてもらっています。
夕方もみんなと一緒に体操をして体をほぐしてから坐るようにしています。
みんなとやっていると、自ずとまた深い感動があるものです。
今回もまた新たな発見があり喜び、感動が味わえたのでした。
やはり求めるとなお一層深くなるものです。
その感動は何かを作り出したものではなく、自身の体に精妙にはたらいている見事な作用に対する驚きであり感動なのです。
まだ今までの座り方では余計な作為がはたらいていたのでした。
それがまた抜け落ちたら、驚くようなはたらきが現れたという感じなのであります。
活潑潑というのか、躍動なのであります。
こういう喜びと感動があるので、飽くことなく精進続けられるのであります。
横田南嶺