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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.12.07
今日の言葉

大きな夢

夢という字にはいろんな意味があります。

『広辞苑』で調べてみても、

睡眠中に持つ幻覚。ふつう目覚めた後に意識される。多く視覚的な性質を帯びるが、聴覚・味覚・運動感覚に関係するものもある。精神分析では、抑圧されていた願望を充足させる働きを持つとする。

②はかない、頼みがたいもののたとえ。夢幻。

③空想的な願望。心のまよい。迷夢。

④将来実現したい願い。理想。

夢や希望を持つことが大切だというのは、この四番の意味であります。

『円覚』の正月号に、土屋大夢という居士の方のことが掲載されていたので、大夢という居士号のもとになった『荘子』の言葉を調べてみました。

講談社学術文庫の『荘子 全訳注』にある現代語訳を参照します。

「夢の中で楽しく酒を飲んでいた者が、一夜明けると身内の不幸のために哭泣したり、夢で不幸に出会って哭泣していた者が、翌朝には勇んで狩りに出かけて行ったり。

よくあることだが、夢を見ている最中には、夢であることに気づかず、時には夢の中でさらに夢占いをすることもある。

目が覚めて始めて夢であることが分かるのである。

とすれば、いつの日か大いなる目覚めを経験して、始めて今までのが大いなる夢でしかなかったと分かるはずだ。

それなのに愚か者たちは、自分勝手に目覚めていると思いこみ、とくとくとしたり顏して知を過信する。

君主よ、長官よ、などと身分秩序に拘泥しているが、何とも頑迷固陋なことだ。

孔丘と君の最前のやり取り、どちらも夢である。私が君に夢だと言うのも、また夢だ。

そして、一切を夢なりとするこの言葉は、名づけて摩訶不思議と言う。これを解釈できる大聖人には、万世の後に一度めぐり会ったとしても、朝に夕べに会えたようなもので、まず誰にも解釈できない、本当の真理なのだ。」

というのです。

『荘子』には有名な「胡蝶の夢」という譬えもあります。

こちらも講談社学術文庫の『荘子』から現代語訳を参照します。

「かつて荘周(本書の作者。姓は荘、名は周)は、夢の中で胡蝶となつた。

ひらひらと舞う胡蝶であった。

己の心にぴたりと適うのに満足しきつて、荘周であることを忘れていた。

ふっと目が覚めると、きょろきよろと見回す荘周である。

荘周が夢見て胡蝶となったのか、それとも胡蝶が夢見て荘周となったのか、真実のほどは分からない。

だからと言って、荘周と胡蝶は同じ物ではない、両者の間にはきっと違いがある。

物化(ある物が他の物へと転生すること)とは、これを言うのである。」

と書かれています。

『円覚』正月号には、蓮沼直應先生が、

「中国古典の『荘子』には「大覚有りて、而る後に、此れ其の大夢なるを知るなり」という文があります。

「大きな目覚めがあったあと、初めて人生というものが大きな夢であったことを知るのだ」という意味です。

『荘子』のこの「大夢」という考え方は禅の教えに通じていて、禅ではこの目覚めを求めて修行すると言えます。」

と大事なところを簡潔に説いてくださっています。

夢からの目覚めこそ、禅で大事にしているところです。

『円覚』誌には、漫画風のページもあります。

私も早くから漫画のようなページもあると読みやすく親しみやすいと考えていましたが、なかなか実現まではできませんでした。

この頃は蓮沼先生が、横山友宏和尚と由馨夫人とお二人にお願いしていつも分かりやすく書いてもらっています。

絵は由馨夫人であります。

今回は托鉢について書いてもらっています。

街で大きな笠をかぶってお経を唱えていたのをご覧になった方から、あれは何かという問い合わせがあったようです。

そこで托鉢について書いているのです。

托鉢というのは「修行僧が町や村を巡り、人々から布施をいただく、修行の一つだ」と説かれています。

「衣食住への執着や煩悩を手放していこうという気持ちで行っている」とも書いてくれています。

そのなかに、どうも私に似たようなお坊さんが登場して

「仏教には『ふるい落とす、はらい除く』ことを意味する「頭陀」という言葉があってね、その実践のひとつが托鉢なんだよ。

僧侶にとっては執着を払う修行であり、町の人々にとっては布施を通して仏教の教えに触れる温かいご縁となるんだ」と語っています。

京都の町を托鉢したのも、もう四十年近く前になりますので、夢のように思います。

鎌倉の町はまだ托鉢することがあるので、夢というほどではありません。

臘八の摂心のように坐禅し続けていると眠気も強くなり、夢の中なのか、現実なのか、定かでないような感覚にも襲われるものです。

黄粱一炊の夢という言葉もあります。

人の一生は、粟飯を炊き上げるほどの短い間の夢だというのです。

富貴な身分になったり、功名をあげたと思っていても、極めてはかない夢のようなものだというのです。

邯鄲の夢とも申します。

そんな夢の中にあって、それでも毎日精進努力を重ねるのです。

釈宗演老師に

ゆめの世にゆめの此身のしばしありて
   み法をぞ説く天地の為

という和歌があります。

夢の世で、しばらく夢を見ているようなものかもしれません。

明日は午前10時から円覚寺仏殿で成道会の法要を行います。

 
横田南嶺

大きな夢

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