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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.12.05
今日の言葉

何も得るものはない

『臨済録』には次の問答があります。現代語訳を岩波文庫の『臨済録』にある入矢義高先生の訳文から参照します。

「問い、「初祖が西からやって来た意図は何ですか。」

師、「もし何かの意図があったとしたら、自分をさえ救うこともできぬ。」

「なんの意図もないのでしたら、どうして二祖は法を得たのですか。」

師、「得たというのは、得なかったということなのだ。」

「得なかったのでしたら、その得なかったということの意味は何でしょうか。」

師は言った、「君たちがあらゆるところへ求めまわる心を捨てきれぬから〔そんな質問をする〕のだ。

だから祖師も言った、『こらっ!立派な男が何をうろたえて、頭があるのにさらに頭を探しまわるのだ』と。

この一言に、君たちが自らの光を内に差し向けて、もう外に求めることをせず、自己の身心はそのまま祖仏と同じであると知って、

即座に無事大安楽になることができたら、それが法を得たというものだ。」(岩波文庫『臨済録』127ページ)

得たというのは、得なかったということだという言葉に注目したいのです。

同じく『臨済録』にはこんな言葉もあります。

「わしの見地からすれば、仏もなければ衆生もなく、古人もなければ今人もない。

得たものはもともと得ていたのであり、時を重ねての所得ではない。

もはや修得の要も証明の要もない。

得たということもなく、失うということもない。

いかなる時においても、わしにはこれ以外の法はない。

たとい、なにかこれに勝る法があるとしても、そんなものは夢か幻のようなものだと断言する。

わしの説くととろは以上に尽きる。

諸君、現に今わしの面前で独自の輝きを発しつつはっきりと〔説法を〕聴いているもの、その君たちこそが、あらゆる場に臨んで滞らず、十方世界を貫いて三界に自由なのだ。」(岩波文庫『臨済録』55~56ページ)

というのです。

「得たものはもともと得ていたのであり、時を重ねての所得ではない。

もはや修得の要も証明の要もない。」

とは実に端的を言葉にしてくれています。

またこんなお示しもあります。

「諸君、世間には、修習すべき道があり、証悟すべき法がある、などと説くものがいるが、一体どんな法を悟り、どんな道を修しようというのか。君たちの今のはたらきに何が欠けていて、どこを補わねばならぬというのか。」(岩波文庫『臨済録』81~82ページ)

また、

「諸君は一体何を求めているのか。

今〔わしの〕面前で説法を聴いている〔君たち〕無依の道人は、明々白々として自立し、何も不足なところはない。

君たちが祖仏と同じでありたいと思うならば、こう見究めさえすればよい。

思いまどう必要はない。」(岩波文庫『臨済録』82ページ)

どれも痛快なお言葉であります。
般若心経の中にも「智も無く亦た得も無し」という一節があります。

先日公開された禅文化研究所YouTubeの般若心経でもそのところをとりあげています。

無文老師は、

「無得無失、得ることも失うこともないのが、真の悟りでなければならん。
これで分かったなどと執着、これでいいのだと、得るところをつかんでおってはいかん。
だから、「得ることも無し」と示されてあるのであります。」

とはっきり説いてくださっています。

禅文化研究所のYouTubeでは、コメントも書き込めることになっていますので、いろんな感想を拝読することができます。

この回のコメントには、

「今回のお話しは、心に溜まりかけた塵をはらっていただいたようなお話しでした。心が重くなったら、また、聞かせていただこうと思います。」
というのがありました。

何か得たように思うのも、心にたまる塵なのです。

何かを得たい、何かをつかみたいと思って、いろいろと修行したり学んだりしてあがくのです。

しかし大智禅師の成道の偈を余語翠厳老師が「果三祇に満ちて道始めより成ず」と読まれました。

普通であれば「道始めて成ず」と読みます。

余語老師は、そのご著書『道はじめより成ず』には次のように説かれています。

一部を引用します。

「一般の本には始めてと書いてあります。

私が始めよりと直して書いたのです。

そのつもりで聴いてください。

長い間修行をしてきて、十二月八日にはじめて道が成じたというのが常識的な読み方ですが、

しかし道というものはみなさんどういうものだと考えますか。

お釈迦さまがつくったものではありません。個人がつくったものではないのです。」

というのです。

ではその根源となるものはなにかというと、

「されば元のものは何かというと、それは限定した姿では言えないのです。だから無というのです。

無という字を諸橋さんの漢和大辞典でひいてみますと、「無し」と書いてあり、次に「限定し難き万物の根源」と書いてあります。

或いは「草木の繁る形」とも書いてあります。

言いようがないのです。鳥なら鳥という限定した形をとっているもの、魚なら魚という限定した形をとっているものの両方を生み出す元のものは、魚でも鳥でもないものです。

烏になり人になり、花になり、すベての力の根源は限定するわけにはいきません。

そういうものを無と言います。

そういう一番元のもの、無というものが道というものの当体、本源です。」

と説かれています。

「だから釈尊が修行して道ができたのではない。釈尊がつくったのとは違うわけです。そういう道の中にいて、お互いが起臥をしているのです。そういうわけで私は、「道始めより成ず」と読むことにしました。」

ということなのです。

何も得るものはない、そう心から納得がいった時に、心は至福の安心に充たされるものです。

はじめから満たされていたのだと分かるのです。

横田南嶺

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