本来の尊さ
大乗仏教では、仏様の智慧はお互いに本来具わっているものだと説いています。
『華厳経』には、どんな衆生でも、如来の智慧を具えていないものはないのだと説かれています。
ただ妄想や執着のために気がつかないのだというのです。
妄想や執着を離れることができれば、如来の智慧は自ずから露わになると説かれています。
夢窓国師もまた『夢中問答集』で「本分(本領)の大智は、誰でももともと具えているものであるけれども、愚痴と智慧とに障げられて、はっきり現われないのだということを信じて、心に浮かぶところの法をも非法をも捨てきれば、必ず本来の大智に相応することができるであろう。
たとえば、酒に酔った人がたちまちに酔いが醒めて、本心に立ちかえるようなものである。」と説いてくださっています。
現代語訳は講談社学術文庫『夢中問答集』にある川瀬一馬先生のものを引用させてもらっています。
夢窓国師への質問に、
「この宗(禅宗)を信じて長年修行をするけれども、いまだに効験がないとがっかりしている者がある。
あるいは一生のうちに悟りを開ければ、いうことはない。
もしそうでなければ、ただ一生の間身体を苦労するばかりで、来世もまた迷いの世界を輪廻するのを免れまいと恐れる者もある。
その言い分があるのではないか」というのがあります。
それにたいして、夢窓国師はこの禅の修行は、世間の芸事のように何か特別なものを達成するようなものではないと説かれます。
「真言秘密の法を行なって、そのよい結果を仰ぎ願い、あるいは芸能をせっせとやって、人にすぐれようと思い、あるいは療治を施して、病気をなおそうとする。
このようなことにこそ、効験のありなしの言い分はあるが、禅宗の宗旨は、こういう道理とは違う」というのです。
そこで夢窓国師は、
「誰でもが具えており、めいめい円満に成就しているものだ。凡夫でも不足はなく、聖人でも変わりはないと。
また、同じく、それが円いことは大空と同じである。欠けていることもなく、はみ出ていることもないとも言っている。
もしも、自分は仏法を修行して、効験があると思ったなら、それは大空にはみ出た相を見るようなものだ。自分はまだ効験がないと思えば、大空に欠けた相を見るようなものだ。
もしこのようなことであれば、凡夫も聖者も増減なしと言われた仏祖のお示しは、皆虚言(いつわり)となろう。」と説かれています。
誰もが本来持って生まれている素晴らしいものを夢窓国師は「本分の田地」と名付けられました。
本分というのは、「人やものに本来そなわっているもの。本来の性質。」という意味です。
これを仏心と名付けたり、仏性と言ったりしています。
本来の面目と言ったり、あるいは本当の自分と言ったりもします。
それは大空のようなもので、増えたり欠けたりするものではないというのです。
芸事のようなものであれば、なにか特別の能力が発揮されることもあるでしょうが、そんなものではないのです。
それでは、その本来の面目、本分の田地にどうしたら到ることができるのか、夢窓国師は興味深い譬えで示されています。
「本分の田地に到るということは、田舎から京(みやこ)へ上ったり、日本から唐土へ渡ったりするようなものではない。
譬えて言えば、人が自分の家の中でぐっすり睡って、種々の夢を見るようなものだ。
あるいは汚れたきたない処に暮らして、日夜苦悩することもあるし、あるいは結構な神仙境に入つて、身の快い時もある。
この時は、傍らに睡らない人がいて、夢を見る人に向かって、さとして言おうは、「お前が見ているきたない処も、結構な場所も、それは皆夢の中の妄想だ。お前の本分(本拠)の家の中には、そんなことは何にもない」と。
この言を聞いても、自分が夢の中で見ていたことが正しいと思っている者は、全くこれを信じない。
それ故に、苦難な目にあった時は、その苦難をのがれようと計略をめぐらし、安楽な目にあった時は、その安楽にいい気になつている。
このように、夢の中で見ているところに化かされて、全く本分の境界を知らずにいる。」
というのであります。
この譬えは修行時代によく先代の管長が仰せになっていて聞かされたものです。
修行というのは、田舎から都に行くようなものではありません。
はじめから都の中にいて、田舎にいるような夢を見ているのだから、悟りとはその夢から覚めることなのです。
思うに任せないという夢を見ることもありましょうし、調子の良い夢を見ることもありましょう。
ただそれらは総て夢なのであります。
仏心の中にいながら、いろんな夢を見ているようなものだということです。
夢覚めて みれば もとより 蓮の上
という拙い句を作ったことがありました。
蓮のうてなの上で夢を見ているだけのことなのであります。
そう思っていれば、修行してうまくゆかないと落胆することもないのであります。
横田南嶺