イス坐禅のご縁
白隠禅師の系統の禅を実習しているのです。
その白隠禅師は、妙心寺の関山国師からつらなる系統であります。
関山慧玄、無相大師と申し上げます。
無相大師のお師匠さまが大燈国師です。
大徳寺の開山であります。
そのお師匠さまが大応国師と申し上げます。
南浦紹明禅師であります。
日本に禅が伝わるときには、日本人のお坊さんが中国に行って修行して禅を伝えた場合と、中国のお坊さんが日本に見えて伝えてくださった場合があります。
初めて日本に禅を伝えた栄西禅師は、中国に渡って禅を学んで伝えてくださった方です。
その後の道元禅師もそうです。
それから更に聖一国師もそうでした。
京都の東福寺の開山であります。
法燈国師もまた同じく中国に渡って無門慧開禅師に参じて教えを伝えられました。
禅の書物『無門関』を伝えてくださいました。
それから大覚禅師などは、中国のお坊さんで日本に禅を伝えてくださった方です。
鎌倉に建長寺を開かれました。
円覚寺を開かれた仏光国師も中国のお坊さんで、日本に見えた方です。
仏光国師は西暦一二二六年にお生まれになって、一二八六年にお亡くなりになっています。
仏光国師より九歳年下なのが大応国師であります。
大応国師は、静岡県のお生まれです。
聖一国師もまた静岡のお生まれで、大応国師の生まれた年に中国に渡っています。
大応国師は幼少より、建穂寺の浄辨法師について天台学を学んでいました。
この建穂寺というのは、白鳳年間の開創という古刹であります。
奈良時代に聖武天皇の病気快復を願って彫った観世音普薩を納めた寺でありました。
鎌倉時代以後、久能寺と共に駿河文化の中心でありました。
多くの堂塔伽藍があったようです。
徳川家からも大事にされていました。
しかし、明治維新により徳川氏の保護を失い、明治政府による神仏分離の政策などにより多くの建物も壊され、更に火災により、ほとんど焼失してしまったのでした。
今は再建された観音堂に多くの仏像が納められているそうです。
十五歳になって僧となり、鎌倉の建長寺に行って大覚禅師に師事しました。
そこで修行すること十年に及びました。
大覚禅師は中国の方でしたので、大応国師もそのもとで中国語の語学力も身につけていたのであろうと推察されます。
かくして二十五歳になって大応国師は中国に渡ります。
当時はまだ南宋の国でありました。
杭州浄慈寺にいた虚堂禅師に参じました。
虚堂禅師が径山に移ると大応国師もそれに随いました。
文永二年三十一歳のときに大悟しました。
そして虚堂禅師から印可を受けています。
文永四年一二六七年に帰国しました。
正元元年一二五九年に入宋してから実に八年の修行でありました。
帰国に際して虚堂禅師は大応国師に偈を与えています。
これが後に日多の記と称されます。
また、虚堂禅師と四十三人の僧が、大応国師との別離に臨み詩を寄せて贈っています。
帰朝した大応国師は、鎌倉に行き大覚禅師にその報告をしました。
そして文永七年(一二七〇)まで留まっています。
その後、大応国師は筑前(福岡県)に行き、興徳寺に住しました。
その二年後の文永九年、大宰府の崇福寺に移っています。
文永十一年と弘安四年の元寇を大応国師はこの崇福寺において経験しています。
崇福寺には文永九年(一二七二)から嘉元二年(一三〇四)年まで三十二年も住されました。
嘉元二年御宇多法皇の招きで上洛して万寿寺にお入りになります。
更に徳治二年(一三〇七)北条貞時の招きで鎌倉に来ます。
建長寺の第十二世住持となりました。
ここで大燈国師が参禅されているのです。
延慶元年(一三〇八)建長寺でお亡くなりになっています。
建長寺の天源院が塔所となっています。
かつて大応国師七百年の遠諱のときにお墓参りだけさせてもらったことがありました。
その天源院でイス坐禅の会をさせてもらいました。
大応国師の開山忌の法要の後であります。
ちょうど気候もいいので、歩いて建長寺に行きました。
建長寺のお坊さんたちが天源院に御出頭なされる頃でした。
私はお経が終わるまで控え室で待機しました。
お勤めが終わったあと檀信徒の皆様にイス坐禅をさせてもらいました。
今年の春に建長寺さまでイス坐禅を紹介させてもらったご縁であります。
そんな由緒のあるお寺でイス坐禅をさせてもらうとは有り難いことです。
またこういうご縁がなければ天源院様にお参りすることもなかったと思います。
その日にいただいたお菓子は雪うさぎというお菓子でした。
お菓子の中に解説がありました。
そこには次のように書かれていました。
「うさぎのおはなし
その昔、宋(中国)の国で学問を修めた大応国師が帰国の途次、雪深い山中で狼に追われていたうさぎを助けて船に乗りました。
玄海灘で船が暴風雨に遭い今にも難破しそうになった時そのうさぎが荒れ狂う海に身を躍らせました。
すると波がピタリとおさまって大応国師一行は無事博多の港に帰ることができました。
ほっとして空を見上げると美しいうさぎが金色の光を放ちながら、博多の空高く飛び去っていきました。
大応国師は博多に上陸したあとすぐ太宰府に崇福寺(福岡市博多区千代町の前身)を建立しました。
崇福寺に伝えられるうさぎの民話で鎌倉時代の話です。」
と書かれていました。
イス坐禅がご縁となって大応国師のお寺におまいりさせてもらい、雪うさぎのお菓子をいただきながら大応国師を偲ばせていただきました。
有り難いご縁であります。
横田南嶺