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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.11.04
今日の言葉

腰が立つ

先日は佐々木奘堂さんにお越しいただいて、坐禅講座を開催しました。

いつもながら御元気な奘堂さんです。

そのお姿とそのお声にはいつも励まされます。

修行僧達もまた奘堂さんのそんな謦咳に触れるにを楽しみにしているようです。

先月は円覚寺の総門の下に坂村真民先生の次の詩を掲示板に書いていました。

一すじに

一すじに
生きたる人の尊さ
一すじに
歩みたる人の美しさ
われもまた
一すじに生きん
一すじに歩まん

という詩です。

奘堂さんの目にもとまったようで、はじめにこの詩のことを紹介してくれていました。

まさに奘堂さんこそ「一すじに生きる」人であります。

その講座の前の日に、奘堂さんは駒澤大学の禅文化歴史博物館で開催されている「没後60年企画展「澤木興道老師と駒澤大学 ~只管打坐と行雲流水を貫いた禅僧~」をご覧になってこられたそうです。

はじめに澤木老師の言葉を紹介されていました。

「道元禅師の只管打坐(しかんたざ)は処世術でも技術でもない、人格の真実である。なにかのまねであったり、つくりものであったりしたならば、そんなものは人間ごとであっても仏道ではない。仏道とは、いろいろな働きをする以前の、もとの自分になることなのである。」

「 どこまでも作りものを作らないで進んでゆく、その溌剌たる生活こそ真実なものである。」

「 わしの一生は、坐禅する、それでおしまい、ほかにはなにもいらぬ。 」

「 ただ正身端坐(しょうしんたんざ)するだけで、あとのことは一切心配はいらない。」

澤木興道老師の言葉は簡潔で的を射ています。

今回も私が初めて目黒絶海老師の提唱を聞いた時の話をしてくださいました。

絶海老師が提唱の前に、みんなに向かって手を合わせて「今日ここにお集まりの皆さんはみんな仏様です」といって拝まれたのでした。

私にとっては衝撃の体験でした。

その日の絶海老師は、私たちの身体には八百万の神々が鎮座している、その鎮座している神々をお祀りするのが坐禅であるとお話くださっていました。

皆を拝まれる老師のお姿やこんな話に感動したのでした。

今から七年前釈宗演老師の百年諱で福井県の高浜に行って講演をしたのでした。

その時にも奘堂さんがお見えになっていました。

その折のこともお話くださっていました。

奘堂さんにとってはギリシャのディオニソス像を自らの師匠となされています。

そのディオニソスという神様が私も皆にも鎮座しているのだと説かれていました。

しかし、そんな尊い存在が鎮座していながら、私たちは普段体をゆがめてくらしています。

ロンドンの大英博物館ディオニソス像が展示されている写真を見せてくださいました。

ディノニソス像の前で多くの人が体を屈めて坐っています。

腰を丸めて坐っているのが目につきます。

奘堂さんは生きている人間はみなゆがんで坐っていると指摘されました。

そこで奘堂さんは、ウィリアム・ジェイムズ[1842-1910] 『心理学』の言葉を引用されました。

「坐った時の醜く歪んだ姿勢(歪身醜坐) … とても苦痛に満ちている 私(ジェイムズ)は、「人間が本来具足しているgraceを自ら捨て去っている」と感じた。 」

という言葉です。

そして奘堂さんは、ゆがんだ姿勢のことを「歪身醜坐」と表現されて、「歪身醜坐は、私の(生涯直らない)クセだ。 私は自分で、本来具足のグレイス(恵み、仏の御命)を捨て去っている。 これは、grievous(悲痛な、痛ましい、重大な、危機的な、最悪の)クセだ。 」

と説かれました。

そこで、ではゆがんだ姿勢にならないにはどうしたらよいか、それが正身端坐の路であります。

しかし決してあれこれしようと技術や計らいではありません。

奘堂さんは、神々を大切にお祀りするのは、脊梁骨を竪起し、気を丹田に充たしめ、正身端坐することだと白隠禅師の教えを説かれました。

しかし大事なのは、鎮座している神々を大事にしようという心が姿勢を作っていくのだということです。

講座のあとにも、

「鎮坐の諸神を大切にするには、竪起脊梁骨・充気丹田・正身端坐することだ。」
という資料の言葉を、「鎮坐の諸神を大切にしようとする(心と体の)姿勢で生きると、結果として、竪起脊梁骨・充気丹田・正身端坐が現成する。」

と訂正してくださっていました。

ここに大事な本質があると感じました。

姿勢という形を作るのではありません。

腰を立てようとするとどうしても意識的になり、よけいな力が入って腰が反りがちになります。

そこから何度も奘堂さんの実習が始まりました。

神様から大事なものを頂戴するつもりで、両手を差し伸べて、これを大事にしようとする心がはたらくと、その結果腰も立ってくるのです。

「腰を立てる」のでは「腰が立つ」のです。

この違いが実に大きいのです。

大腿骨の付け根の部分を足と心得てそこから立つのです。

姿勢はすぐに崩れてゆがんでしまいますが、またすぐに大腿骨の付け根から立ち直すのです。

この繰り返しなのです。

これを何度も繰り返して行いました。

根底に流れているのは同じ教えなのですが、奘堂さんも毎回研究してくださっていますので、より一層大事なところが強調されているように感じました。

余計なものがそぎ落とされたという感じです。

それだけ深まっていると思いました。

奘堂さんの講座のあとすぐに上京して仏教伝道協会の六十周年記念祝賀の会に参加してきました。

立食でしたが、その時にも奘堂さんの教えを噛みしめながら立っていると苦痛でなくなりました。

イスで坐るとすぐに姿勢が崩れるから立っているようにという天の恵みだったと思ったのでした。

 
横田南嶺

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