塵を払え
私どもはただいまその系譜に基づいて修行しています。
慧能大師のあとに、南嶽禅師と青原禅師とのお二方が出られて、南嶽禅師の系統から臨済禅師が出て今日の臨済宗へと連なっています。
青原禅師の系統からは曹洞宗の系譜へと連なっています。
六祖慧能大師の系統を南宗と呼んでいます。
「南宗」は『広辞苑』にも解説があります。
どのように解説されているか見てみます。
仏教語として「(もっぱら江南に行われたからいう)
禅宗の一派。
中国禅宗の第五祖弘忍の弟子慧能を祖とする。
以心伝心、少し進んで教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏を主張し、頓悟主義を唱えた。
のち五家七宗に分かれる。南宗禅。祖師禅。」
とあります。
「北宗」も『広辞苑』には
「(中国北部に行われたからいう)
禅宗の一派。
中国禅宗の第五祖弘忍の弟子神秀を祖とする。
南宗禅に対し、如来の教えや経典を尊重し、漸悟主義の立場に立つ。如来禅。北宗禅。」
と解説されています。
頓悟も『広辞苑』には
「修行の段階を経ずに、悟りの全体を一度に得ること。禅では南宗が主張し、北宗の漸悟より優れているとした。」
と説かれています。
南方で盛んになったので南宗というのですが、達磨大師が南天竺から見えたことにも因んで達摩大師の正統な教えを受け継いでいることも表しています。
北宗の教えは東山法門と呼ばれ、心は鏡のように清らかなもので、そのきれいな鏡に塵がつかないように修行するという教えでありました。
後に『六祖壇経』で神秀が
身は是れ菩提樹
心は明鏡台の如し、
時々に勤めて払拭して
塵埃を惹かしむること莫れ
という偈を作られたとされています。
それに対して慧能が
菩提本、樹無し
明鏡亦臺に非ず
本来無一物
いずれのところにか塵埃を惹かん
という偈を作られたのでした。
たしかに慧能の方が高次元の悟りを表しているようにみえます。
しかし実際の修行においては、この神秀の偈のように心を常に清らかにしておくように努力することは大事であります。
『楞伽師資記』に慧可大師の教えとして次のような言葉があります。
筑摩書房『禅の語録2 初期の禅史』から現代語訳を引用します。
「「『十地経』(悟りにいたる十種の段階)に言う、
ひとびとの身体の中に、ダイヤモンドのようなブッダの本質が潜んでいる。
あたかもそれは太陽のように、それ自体が明るく完全に充実していて、限りもなく広く大きい。
ところが、われわれの精神を構成する五つの要素が、重なった雲のようにそれを覆いかくしているというただそれだけの理由で、ひとびとはそれに気づかぬのである。
だからもし、智恵の嵐が吹き払うとなると、五つの要素という重なった雲は消え尽き、プッダの本質が完全に輝き、もえるばかり明るく浄らかになるのであると。」
という教えであります。
心は太陽にように清らかですが、五蘊という雲が覆い隠しているというのです。
更に
「『華厳経』にも〔その仏性について〕こう言っている、
〈ばかでかくて世界のひろがりに等しく、とことんまで天空のようである〉と。
それは、出た土でつくった甕の中に燈火をともしたように、〔内に隠れている限り〕外部を照らすことはできない。
やはり、われわれが経験するように、雲や霧が八方にたちこめて、世界がまっくらであるとき、日の光はどうして明るく清浄であることができようか。
日の光はじっさいはなくならぬのであるが、ただ雲や霧に覆いさえぎられているだけなのである。
すベて生きとし生けるものの清浄な本質も、やはりそれと同じである。
ものを対象化してやまぬ気まぐれな想念と、さまざまの臆見や欲望という、幾重もの厚い雲に覆いさえぎられているというただそれだけの理由で、神聖な真理が発揚され得ないでいるのである。
もし気まぐれな想念が起きないままに、だまって浄らかに坐っているなら、偉大なニルヴァーナという日の光は、ちゃんとはっきりしてくるはずである。」
とも説かれています。
道元禅師は天童如浄禅師に参じたときに、如浄禅師から
身心脱落とは坐禅なり。祇管に(ひたすらに)坐禅するとき、五欲を離れ、五蓋を除くなり。(『宝慶記』)と言われました。
小川隆先生のご講義で、この如浄禅師の言葉が紹介されていました。
かって、高崎直道先生がこの如浄禅師の「身心脱落」は「心塵脱落」であったのではないかという問題を提起されたことがありました。
小川先生もそのことに触れられていました。
如浄禅師の語録の中には「心塵脱落」という言葉が使われているそうです。
五欲を離れ五蓋を除くというのは、まさに心の塵を除くことだと受け取れます。
「心塵脱落」を「身心脱落」と読み違えたのではないかというのですが、これを今日では、創造的再解釈というのだそうです。
単純に心の塵という字は、十一真の韻ですし、身心の心は十二侵の韻で異なるのですが、中国語では方言による違いも大きいようで、浙江省の発音ではこの二つはとても似ているのだそうです。
ただ道元禅師は身心脱落したと受けとめられたのでしょう。
そうかといって心の塵を払うという修行もおろそかにすべきではないと釈宗演老師は『禅海一瀾講話』で説かれています。
他にも東山法門の実際の修行について、それは「一行三昧」であるとか、「一を守って移らず」であるということも小川先生は示してくれていました。
心を一つに集中させるという修行は今も大事にされています。
道信禅師は、一を守って移らずということを、「よく気をつけて一つのものを見つめ、昼と夜の区別なしに、力一杯努めていつも動かぬことである。
そして、君の心が散りそうなときは、いそいでまたひきしめ、あたかも縄で鳥の足をくくって、飛び出とうとしても手もとにひきもどすように、一日中よく見守ることをやめぬなら、すべてが消えつきて自然に心は安定するだろう」と説かれています。
こういう修行をして塵を払うのです。
横田南嶺