死なない方法はあるか
今回は花園禅塾の学生さんたちが参加されなかったこともあってか、七名のご参加でありました。
少ない分、お一人お一人のお話に耳を傾けることができました。
新体操をなさっている学生さんから、人に伝えることについて聞かれました。
その学生さんは人前で話をするのが苦手だそうです。
しかし体操の場においても、自分より後に入った人に指導することもあります。
また周りの人にいろんなことを伝えないといけない場面がよくあります。
自分は人に伝えるのが苦手でいつもあまり伝わっていないのではないかと思っているというのです。
そこで何かよい工夫はありませんかという質問でした。
私などは今日でこそ人前でお話することが多くなっています。
その日も大教室で大勢の学生さんたちに話をしたところでした。
私はその学生さんに伝えました。
まず自分が伝えようとしていることがよく伝わっていないのではないかと思っていることが素晴らしいのですと伝えました。
およそ何割が伝わっていると思っていますかと質問してみました。
その学生さんは「うーーん」と考えながら、半分くらいかなと答えていました。
私は、どうでしょうか、半分も伝わっているでしょうかと申し上げました。
先ほど午前中の授業で私は多くの学生さん達に話をしました。
でも私が伝えようとしたことの何割が伝わっているかと考えるととても半分もゆきません。
あるアナウンサーの方が、自分が伝えようとしていることの一%くらいしか伝わっていないと思っていると仰っていました。
人にものを伝えることのプロであるアナウンサーの方が一%だというのですから、私たちの伝えることはわずかしか伝わっていないと思います。
ただそのように気がついていることが大事なのです。
自分の言ったことは総て伝わっていると思うようなのは錯覚に過ぎないのです。
総て伝わっていると思い込んでいることほど恐ろしいものはありません。
とても伝わっていないと自覚するからこそ、何度でも真摯に話をしようと努力できるのです。
伝わっていないと感じるから、伝えようと努力するのです。
伝えることが苦手だと思っていることは尊いことですと申し上げたのでした。
その日は、夕方まで大学で勤めて、そのまま帰ることもできましたが、一泊させてもらうことにしました。
そして次の日の朝、再び西本願寺のお勤めに参列させてもらいました。
三日前にお参りしたところですから、二回目となると勝手知ったるで阿弥陀堂に入って始まるのを待っていました。
また大勢のお坊さん達が内陣に入堂なさって讃仏偈が唱えられます。
讃仏偈と回向文を唱えます。
回向文は
願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国
というものです。
願わくは、この功徳を平等に一切に施し、同じく菩提心を発して、安楽国に往生せん
と訓読できます。
それから御影堂に移って正信偈を唱えます。
そのあと今回は正像末和讃をお唱えしました。
この和讃は親鸞聖人のお作りになった和讃です。
釈迦如来かくれましまして
二千余年になりたまふ
正像の二時はをはりにき
如来の遺弟悲泣せよ
から始まります。
正像末とは正法・像法・末法を言います。
正法の時代とは、仏教の教えが正しく行われ、多くの人が悟りを開くことができます。
像法の時代は、仏教の教えは残るものの、悟る人が減り、自力の修行に重点が置かれます。
末法の時代は、仏の教えや修行が衰え、凡夫が自力で悟りを得ることが困難な時代とされています。
その和讃のあとご法話がありました。
とても分かりやすいご法話でありました。
その和上さんが十年ほど前に古本屋に行ったときの話でした。
『人生を100倍楽しく生きる方法』という題の本があって手に取られたそうです。
質問に答えるという形式で話が進められているそうです。
最初のページに新幹線にタダで乗る方法とはと書いてあったそうです。
その答えが次のページに書かれてありました。
それは新幹線の運転手になればよいと書いていたというのです。
更にマラソンで必ず一等賞になる方法とは何か。
答えは一人で走ればよいというのです。
その和上さまもあまり大したことが書いてない本なのかなと思いながらも、ペラペラめくっていくと絶対に交通事故に遭わない方法というのがありました。
それは出かけなければよいというのです。
最後に人間が絶対に死なない方法とはと書かれていました。
それは生まれてこなければよいというのです。
こんな話から、生まれてきたものは必ずこの命を終えてゆかねばならないと話を進められました。
人の死亡率は100%なのです。
そんな中で阿弥陀様の誓願は無明長夜の大いなる灯火であると親鸞聖人はおっしゃいました。
真っ暗な長い夜にこの人生を例えられました。
一歩一歩先が見えない暗闇の中、手探りで不安を抱えながら生きている今ではありますが、その暗闇の道のりの向こう側、果たして暗闇がずっと続いていくのか、いや、そうではありません。
大きな灯火となって、必ず夜明けを迎えるこの一歩一歩の道のりであると説かれていました。
夜明けというお浄土に向けての一歩一歩だと説いてくださっていました。
こんなお話を、メモを取りながら拝聴していました。
本願寺を後にして歩きながら、人生を100倍楽しく生きる方法について考えました。
マラソンで必ず一等賞になる方法とは、一人で走ればよい。
絶対に交通事故に遭わない方法とは、出かけなければよい。
人間が絶対に死なない方法とは、生まれてこなければよい。
この話は深いものがあると思いました。
人として生きるからには一人では生きられません。
競争も避けることができないのです。
出かけずに生きることも出来ません。
生きるからには、交通事故や不慮の災害、事故にあう危険は常にあるのです。
それから生まれたからには死を避けることはできないのです。
これは無常の真理を説いていると思いました。
次の日の日曜説教に使えそうな話だと思いながら帰ってきたのでした。
横田南嶺