宝厳寺参り
宝厳寺様は、時宗のお寺であります。
時宗の祖、一遍上人の生誕地であります。
時宗については岩波書店の『仏教辞典』に詳しく書かれています。
参照してみます。
「時宗」は「遊行宗」ともいいます。
「1274年(文永11)一遍によって開創された浄土教の一門。」
と書かれています。
この年は文永の役があった年であります。
「一遍は浄土宗西山派の祖証空門下の聖達の弟子で、法然の孫弟子に当る。
唐の善導がその法会に集まる人々を<時衆>と呼んだのにちなみ、一遍も門下の僧尼を時衆と呼んだ。
昼夜六時に念仏して浄土を願う同行衆の意である。
それが次第に教団の名となり、江戸時代には<時宗>として公認された。」
と解説されています。
更に「時宗の教えの根本は口称(くしょう)念仏の実践にある。
一遍が全国を遊行し、念仏賦算したのも、一人一人に実際に念仏を称えさせ、念仏の同行同朋とするためであった。
以来歴代の遊行上人は国中を遊行し、念仏を勧進し、賦算を任として今日に至っている。」
と書かれています。
賦算というのが一遍上人の独自の方法です。
賦は「くばる」、算は「念仏札」です。
念仏札には南無阿弥陀仏と書かれて、その下に決定往生六十万人と書かれています。
一遍上人が遊行して、念仏賦算を行っていたときに、熊野山中で一人の僧に逢いました。
その僧に念仏札を受けるように勧めたときに、信心が起こらないので受け取れないと断られてしまいます。
それでも押し問答の末に念仏札を渡したのですが、一遍上人の心に迷いが生じました。
そして熊野本宮証誠殿に参籠したのでした。
すると熊野権現が現れて一遍上人にお告げをしたのでした。
「融通念仏を進める聖よ、どうして念仏を間違えて勧めているのか。
あなたの勧めによって、すべての人々がはじめて往生するのではない。
南無阿弥陀仏ととなえることによってすべての人々が極楽浄土に往生することは、阿弥陀仏が十劫という遠い昔、正しいさとりを得たときに決定しているのである。
信心があろうとなかろうと、心が浄らかであろうとなかろうと、人を選ぶことなくその札を配るべきである。」
という啓示をいただいたのでした。
文永十一年のことでした。
一遍上人は弘安五年(一二八二)には、鎌倉へと入ろうとされています。
しかし、鎌倉入りを目前に小袋坂で行く手を阻まれたため、一遍上人は、片瀬の浜地蔵堂へと移り、ここで踊り念仏が始まったと伝えられています。
この年に円覚寺が開創されています。
一遍上人が法燈国師に参禅していたということが『一遍上人語録』に書かれています。
「宝満寺にて、由良の法燈国師に参禅し給ひけるに、国師、念起即覚の話を挙せられければ、上人かく読みて呈したまひける
となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏の声ばかりして
国師、此歌を聞て「未徹在」とのたまひければ、上人またかくよみて呈し給ひけるに、国師、手巾薬籠を附属して、印可の信を表したまふとなん
となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」
というのであります。
法燈国師が「念起即覚」について一遍上人に工夫させました。
念が起こってもすぐに覚すれば、念からは離れることができるのです。
正応二年(一二八九)、一遍上人は、兵庫観音堂(現、兵庫県神戸市真光寺)でお亡くなりになります。
臨終に先立ち八月一〇日の朝に一遍上人は、『阿弥陀経』を読みながら所持していた書物を焼き捨てました。
「一代の聖教(しょうぎょう)みな尽きて南無阿弥陀仏になりはてぬ」と言われたのでした。
一代の教えを突きつめると南無阿弥陀仏の教えになるという意味です。
そして八月二三日、一遍上人は、漂白の旅に明け暮れた五一年の生涯を閉じたのでした。
この一遍上人を心から慕ったのが坂村真民先生でした。
真民先生は、一遍上人の念仏賦算を受け継いで、詩を作って個人詩誌「詩国」を賦算することを発願されたのでした。
こんな詩を残されています。
一遍智真
捨て果てて
捨て果てて
ただひたすら六字の名号を
火のように吐いて
一処不住の
捨身一途の
彼の狂気が
わたしをひきつける
六十万人決定往生の
発願に燃えながら
踊り歩いた
あの稜々たる旅姿が
いまのわたしをかりたてる
芭蕉の旅姿もよかったにちがいないが
一遍の旅姿は念仏のきびしさとともに
夜明けの雲のようにわたしを魅了する
痩手合掌
破衣跣の彼の姿に
わたしは頭をさげて
ひれ伏す
という詩であります。
その一遍上人の生誕地が宝厳寺であり、真民先生は宝厳寺にご自身のお墓をお作りになっています。
念ずれば花ひらくと書かれたお墓であります。
そのお墓にお参りして、宝厳寺の阿弥陀様、そして一遍上人像にお参りしてきました。
宝厳寺様には、二〇一二年に初めてお参りしています。
しかし二〇一三年に火災で焼失してしまいました。
その後本堂などすべて再建されています。
ご住職にもお目にかかり親しくお話をさせていただきました。
そうして愛媛の地を離れて空路羽田に向かったのでした。
横田南嶺