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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.09.28
今日の言葉

青空に雲が湧くように

禅文化研究所のYouTubeチャンネルでは、山田無文老師の『般若心経』を読むと題して、般若心経を学んでいます。

前回は、「無無明亦無無明尽」というところをお話しました。

空の世界には無明も無く、また無明の尽きることも無いというのです。

禅文化研究所のYouTubeチャンネルではコメントもいただけるようになっています。

この回にはたくさんのコメントをいただいています。

有り難い言葉がいくつもありました。

「今日の話はとても分かりやすく、空(青空))を体得することと、煩悩(雲)のある無も一つの風景であると思えるようになりたいと日々の行持を積み重ねられれば」という言葉がありました。

「しみじみと、心の中を覗く時を、ありがとうございます」というもあります。

「とてもわかりやすく講義をしていただきありがとうございます。

まずは、きれいさっぱり空の心になりますよう精進してまいりたいと思います。」

という言葉もありがたいものです。

また
「暁天坐禅でお世話になっておりますが」と書かれていますので、円覚寺の朝の坐禅会に参加されている方だと思われるコメントもありました。

その方は「次次と雲が湧くように一心を妨げる煩悩が浮かび、どうしても無になりきれないと自分を責めるようなところがありました。

しかし今回のお話で救われたように感じました。ありがとうございました。」

と書いてくださっていました。

「ご講義を拝聴している間は、清浄な世界が垣間見える気がします」とは、これまた嬉しいお言葉です。

こういうコメントを拝読していると、禅文化研究所のYouTubeを始めてよかったとしみじみ思います。

その回では無明について話をしているのでした。

お釈迦様は

「どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明によって起こるのである」

「この無明とは大いなる迷いであり、それによって永いあいだ、このように輪廻してきた。」(『ブッダのことば』岩波文庫)と仰せになっています。

無明は岩波書店の『仏教辞典』には、

「漢語<無明(むめい)>(明無し)は目が見えない意で、『楚辞』9。懐沙などに用例が見える。

転じて、聡明さに欠ける意。

仏教語としての<無明>は、人生や事物の真相に明らかでないこと。

すなわち、すべては無常であり固定的なものはなにもない(無我)という事実に無知なこと。

この無明がもとで固執の念(我見)をおこし、さらに種々の煩悩の発生となる。

迷いの根本で、<愚癡>とも称され、<貪欲><瞋恚>と合わせて三毒といわれる。

また、十二因縁の第一支とされる。」

と解説されています。

無明がもとになって苦しみが生じるのです。

それを十二の階梯で示しているのが十二因縁です。

無文老師の十二因縁についての提唱を拝読してみます。

「まず「無明」迷いの根本、いわゆる盲目的本能である。

その煩悩から行動が出て来るのが「行」である。

その行から、我という自我意識が出て来る。

お互いがお母さんの胎内に宿ることを「識」と言うのであります。

お母さんの胎内に命が宿ると、身体と心ができる。

これを「名色」と言う。

そして、次第に六根がそなわる。

これを「六入」と言う。

そして、生まれ出て来ると、初めて外の世界に触れる、

これを「触」と言う。

触れると感覚がはたらいて「受」が起こる。

感覚があるとそこに愛情が出て来る。

「愛」である。

好きなものがあると、自分のものにしようという所有欲が出て来る。

これが「取」だ。

取るとそこに「有」という所有観念が出て来る。

これが迷いであります。

すると次にどこかヘ迷うて生まれて来るのが「生」である。

そして「老死」、年をとって死ぬという結果が出て来る。

過去の二因としての無明、行。

現在の五果としての識、名色、六入、触、受。

現在の三因としての愛、取、有。

未来の二果としての生、老死。

これを十二因縁と言うのであります。

要するに無明という根本の原因によって、死という結果になるのである。

この十二因縁を繰り返し、生死を繰り返すのが凡夫の世界であります。」

というのであります。

無明が起きるのを、無文老師は

「ちようど青空に雲が湧くように湧いて出るだけであって、青空は実在だが雲は実在ではない。雲は湧いて出るだけである。
こう分かれば無明もない。しかし、無明というものは実在するものではないけれども、なくなるものでもない。腹が立つというようなものは、身体中どこを探しても何もありはせんが、しかし腹の立つことはなくならん。」

と説かれています。

そこで無文老師は、

「無明も無し、無明の尽くることも無し。
本当に秋晴れの空は、このとおり雲一つないスカッとした日本晴れだということが分かれば、雲があってもいいではないか。雲があるのが面白いではないか。こういうことになる。

無明は実在するものではない、お互いの本性は煩悩なぞあるものではない、スカッとした無心が、空が本性だと分かれば、煩悩はあってもいいではないか。出て来たっていずれまもなく消えるものだ。
こう徹すれば、煩悩があるのも、かえって人間味があっていいではありませんか。煩悩があってもよし、なくてもよしと。こういう世界が空という世界ではないかと思うのであります。」

と説かれています。

この青空の譬えが分かりやすかったのだと思いました。

更に無文老師は「老死」についても、

「老死は年をとつて死ぬことでありますが、この無心という世界、対立を離れた空の世界、無意識の世界から見るならば、老の時は老であり、死の時は死である。
若と老とが対立するからそこに老があり、生に対立するから私どもはそこに死を考えるのでありますが、対立を離れた空の世界には、老死はないはずであります。」

と説かれています。

ご自身の坐禅の体験をもとに空の世界を説いてくださっています。

その言葉をたよりにしながら、空の世界を皆さんと学んでいるのであります。

しずかに坐って、私たちはいったいどのようにして迷いの心を起こしているのか、見つめるといいのです。

それは青空に雲の湧くようなものだと見ることができれば、苦しみから離れることができます。

 
横田南嶺

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