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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.09.30
今日の言葉

聖なるものの否定

般若心経の中に、「無苦集滅道」という言葉があります。

先日の禅文化研究所YouTubeの撮影では、この言葉を解説してみました。

山田無文老師の『般若心経』をもとに学んでいます。

「無苦集滅道」とは「苦集滅道も無し」なのです。

苦集滅道とは四諦のことを言います。

四諦は四つの真理です。

お釈迦様が初めてお説法された内容がこの四諦であると言われています。

苦諦という苦の真理が最初です。

これは、人生は苦であるという真理です。

四苦八苦の苦しみがあります。

生まれる苦しみ、老いる苦しみ、病の苦しみ、そして死の苦しみが四苦です。

それに愛別離苦、愛しい人と別れなければならない苦しみ、怨憎会苦、憎い人と会わなければならない苦しみ、そして求不得苦、求めても得られない苦しみ、五陰盛苦、この肉体と精神を持って生きることは苦しみであるというのです。

高神覚昇先生の『般若心経講義』にはこの人生の苦しみについて、黒白二鼠の譬えが説かれています。

こんな話です。

むかしあるところに一人の旅人がありました

広い野原を歩いていた時、突然、狂象に出逢いました。

おどろいて逃げ去ろうとしましたが、広い広い野原のこと、逃げ隠れる場所とてはありません。

しかし幸いにも野原の中に、一つの古い井戸がありました。

そしてその井戸には、一筋の藤蔓が下の方へ垂れ下がっていました。

天の与えと喜んで、旅人は急ぎそれを伝って、井戸の中へ入つてゆきました。

狂象はおそろしい牙をむいて覗きこんでいます。

ヤレまあよかったと、旅人がホット一呼吸していると、井戸の底には怖ろしい大蛇が口を開いて、旅人の落ちてくるのを待っているではありませんか。

周囲を見まわすと、どうでしょうか、四方にはまだ四疋の毒蛇がいて、今にも旅人を吞もうとしています。

命とたのむものは、たつた一本の藤蔓です。

しかしその藤蔓もです、よく見れば、黒と白の二疋の鼠が、こもごもその根をかじっているではありませんか。

もはや万事休すです。

全く生きた心地はありません。

ところがです。

たまたま藤蔓の根に作っていた蜜蜂の巣から、甘い蜜がポタリポタリと、一滴、二滴、三滴、五滴ばかり彼の口へ滴りおちてきたのです。

全くこれは甘露のような味わいでした。

そこで旅人は、もはや目前の怖しい危険をもうち忘れて、ただもうその一滴の密を貪り求めるようになつたというのです。

申すまでもなく、曠野にさ迷うその旅人こそは、私どもお互いのことです。

一疋の狂象は、「無常の風」です。

流れる時間です。

井戸とは生死の深淵です。

生死の岸頭です。

井戸の底の大蛇は、死の影です。

四疋の毒蛇は私どもの肉体を構成する四つの元素(地、水、火、風の四大)です。

藤蔓とは、私どもの生命です。生命の綱です。

黒白二疋の鼠とは、夜昼です。

五滴の蜂蜜とは、五欲の事です。

官能的欲望です。」

と説かれています。

二番目の苦しみの原因は欲であると高神先生は説かれています。

渇愛とか煩悩であるとも言います。

岩波書店の『仏教辞典』には

苦しみの生起する「原因は、再生をもたらし、喜びと貪りをともない、ここかしこに歓喜を求める渇愛(かつあい)にある」と説かれています。

滅諦は苦しみの消滅です。それは渇愛、煩悩を滅することです。

それには正しい道を行うことであるというのが最後の道諦です。

道諦では八正道が説かれています。

八つの正しい道です。

高神先生は、

「ところでこの正道のなかで、いちばん大切なものは「正見」です。

正見とは、正しき見方です。

何を正しく見るか、四識の真理を知ることですが、つまりは、仏教の根本原理である「因縁」の道理をハッキリ認識することです。

この「因縁」の真理をほんとうに知れば、それこそもう安心です。

どんな道を通って行っても大丈夫です。

だが、ただ知ったというだけで、その「因縁」を行じなければ効果はありません。
因縁を行ずるとは、因縁を生かしてゆくことです。

「さとりへの道は自覚と努力なり、これより外に妙法なし」といいますが、因縁を知り、さらにこれを生かしてゆくには努力が必要です。

発明王エジソンも、「人生は努力なり」といっていますが、たしかに人生は努力です。

不断の努力が肝要です。

しかもその努力こそ、精進です。

正精進というのはそれです。

正精進こそ、正しき生き方です。

ゆえに八正道の八つの道は、いずれも涅槃へ至る必要な道ではありますが、そのなかでもいちばん大事なのは、つまりこの「正見」と「正精進」です。」

と説かれています。

お釈迦様はこの四諦の教えを説かれたのですが、般若心経ではその四諦も否定されています。

そのことについて、山田無文老師は、達磨大師と梁の武帝の問答を例に出して解説されています。

引用してみます。

「達磨大師がインドから来られて、まず梁の武帝に会われた時のことであります。

この武帝というのは、当時、仏心天子と言われるほどの仏教信者で、寺もたくさん建て、何人もの坊さんを育て、自らは袈裟を着て放光般若経の講釈もするというような、熱心な方でありました。

そこで、達磨大師が来られた時に武帝は、

「朕、寺を起て僧を度す、何の功德か有る
-わしは多くの寺を造り、何万という僧侶を育てて来た。いったい、その功徳はいかがなものであろうか」
と尋ねられた。

すると、達磨大師は、いともあっさりと、
「無功徳-功徳なぞござらん」
と答えられた。

もしも、武帝が何ぞ功德でもあると思って、寺を建てたり僧を育てたりしたのであるならば、それは正見でも、正思惟でもなく、正業でも、正精進でも、正念でもありません。

達磨大師が、「無功徳」と喝破されたのはあたりまえです。

そこで、武帝はさらに尋ねた。
「如何なるか是れ聖諦第一義」

すると達磨大師は、
「廓然無聖カラーッとして、有り難いものは何もない」
と答えられた。

世間の因果さえも認めないのだから、出世間の因果などもちろんない。聖諦もなければ、第一義もないのだと。

まことに真の悟りの世界には、苦諦も、集諦も、滅諦も、道諦もなく、聖諦第一義もないのであります。

般若の智慧、空の世界は秋晴れの空のごとく、カラーッとして仏見法見さえもないのであります。

そこのところを、般若心経は、「苦集滅道も無し」と示されておるのであります。」

このように聖なる真理も否定します。

聖なるものへ畏怖というのは宗教においては重要視されるものです。

しかし禅ではその聖なるものを否定します。

とりわけ聖なるものが自己の外にあると求めることを嫌います。

聖なるものを否定して、それぞれが聖なる存在であることを自覚するのです。

 
横田南嶺

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