華厳の教えに学ぶ
『華厳という見方』という本が二〇二三年の十一月に出されています。
その折のこともこの管長日記で書いたのでした。
二〇二三年の十二月三日の管長日記に書いています。
今回はその続編であります。
表紙には
「あらゆるものが重々無尽につながっている」
「いま世界が注目すべき
『華厳経』の考え方を
芥川賞作家がやさしく語る」
と書かれています。
「重々無尽」というのは、『広辞苑』には、
「一のなかに十があり、十のなかに一があるというように、あらゆる事物・事象は互いに無限の関係をもって包含し合っていること。華厳宗の思想。十十無尽。」
と解説されています。
岩波書店の『仏教辞典』には、
「華厳宗の縁起説の特色を示す語句で、<十十無尽>とも書く。
すべての存在は互いに関連し合って際限のないこと、一切が相互に入り混じって相即し融合しているさま。
法蔵の『華厳金師子章』によると、10枚の鏡を立て中央に蝋燭を置くと、その炎が鏡に映り、それが更に他の鏡に映り、複雑に映り合って限りなく幾重にもなることをいう。
要するに重なり合って尽きることのない万物の縁起の関係を形容する言葉である。」
と説かれています。
玄侑先生の「はじめに」というまえがきには、
「戦争をはじめ、我執が跋扈する現代社会の解毒剤は、間違いなく「華厳」の思想だと思う。」
と明言されています。
それから「経本の重要な主題が重々無尽の縁起であってみれば、「華厳」の理解のためには補助線が極めて重要になる。
今回は、親鸞聖人や道元禪師、菩提達磨のほか、生物学者のチャールズ·ダーウィンや福岡伸一氏、哲学者の國分功一郎氏などにも登場いただいた。
また十八世紀半ばにイギリスで提唱された「セレンディピティ」という概念も、西洋型の縁起の入り口と見ればじつに興味深い。
おそらく日本という国には中世から近世にかけて、すでに華厳の思想が地下深くに浸透していたのではないだろうか。
キノコの菌糸のように地下に拡がったその思想が、補助線に刺激されて因陀羅網のように姿を現し、我執に曇った世界に光明を届けてくれることを切に願う。」
と書いていらっしゃるように、仏教者だけでなく、現代の科学の知見に至るまで幅広く用いられて縁起の世界を説いてくださっているのです。
「因陀羅網」
とは『仏教辞典』に
「『リグ‐ヴェーダ』の最も主要な神であり、後に仏法の守護神となった帝釈天(たいしゃくてん)すなわちインドラ神の宮殿である帝釈天宮に、それを荘厳するために幾重にも重なり合うように張りめぐらされた宝網のことで、<帝網>とも<帝釈網>ともいわれる。
一つ一つの結び目に宝珠がつけられていて、数えきれないほどのそれらが光り輝き、互いに照らし映し合い、さらに映し合って限りなく照応反映する関係にある。
それはすべての存在が重重無尽に交渉し合って相即相入(すべてのものは在り方としても働きとしても互いに入りくんでいて、一体不離であること)することの喩えとして用いられる。」
と解説されています。
本書は四章から成り立っていて、それぞれ講演録になっています。
『華厳経』十地品にある遠行地の話がはじめの方に説かれています。
遠行地は文字通り、遠く離れた遙かな地点に行くということですが、この説明に玄侑先生は「無功用」ということを説かれています。
無功用とは、目的がない状態、作為がなく、努力もしてない状態です。
玄侑先生は「目的、作為、努力ーこのすべてがなくならないといけないという考え方が「遠行地」という」と書かれています。
親鸞聖人の自然法爾という言葉を紹介されています。
おのずからしからしむるという言葉です。
「人間には私があるから悟れない」という一章があります。
そこに「わたくし」という言葉のもともとの意味が書かれています。
もとは「我が田に杭を刺す」から来ているそうです。
「うちの田んぼはここですよ」という杭、それが「わ・た・く・い」だったのです。
その「わたくい」が「わたくし」になったというのです。
これは初めて知りました。
すべてはつながりあっている世界を華厳では「法界縁起」と申します。
法界縁起では、あらゆるものが真理そのものの現れとしています。
仏性現起とも言います。
性起とも略していいます。
仏性というともともと仏になる可能性を言いました。
可能性があるのだから努力し修行して仏になりなさいという教えでした。
いまは凡夫であるから仏性は隠されているけれども、しかし修行によってあらわしていかなくてはならないという教えであります。
これは分かりやすいものです。
仏道とはそのようなものだと思われる方も多いと思います。
しかし華厳では、一切は仏性のあらわれとして輝いているのだと説くのです。
どんなものでも仏性の現れだと見て、すべては仏の光明に包まれたものと見るのです。
その仏の現れとしての一切の存在は、相互に依存しあい、全体と個が無碍に融通しているのです。
まとめますと、すべての存在は「法性(真如・空)」を本体としています。
その法性に基づいて、諸法(森羅万象)が縁起し現れるのです。
この現象世界のすべてが法性の発現であり、真如と矛盾しないのです。
そしてその一つ一つの存在(事)が他のすべてと無碍に融け合い、相即・相入する関係にあります。
そこには「自他一如」という、自分と他者は本来一体という真理もあります。
「怨親平等」という、敵味方を隔てない教えもあります。
そこから、環境や社会を含めた全存在との調和をはかっていくという教えに展開してゆきます。
禅の教えも華厳がもとになっていると言えます。
今の時代にも華厳を学ぶ必要があります。
横田南嶺