歩行禅から四弘誓願へ
誓願と申します。
阿弥陀様は、もとは法蔵菩薩であり、四八の誓願を立てられて、成就されたのでした。
観音様は十大願がございます。
普賢菩薩もまた十大願がございます。
それに対してどんな仏さまや菩薩さまにも、またもっと言えば仏道を学ぶ者すべてに共通する願いというのもあります。
それが四弘誓願という四つの願いです。
衆生無辺誓願度
煩悩無盡誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成
の四句であります。
まず第一に生きとし生ける者の悩み苦しみは限りないものですが、これを救ってゆこうと願うのです。
第二に苦しみの原因となる煩悩は尽きることがないのですが、これを誓って断ってゆこうと願うのです。
第三には、仏さまの教えは限り無くあるのですが誓って学んでゆこうと願うのです。
第四には、仏道はこの上ないものだけれども誓って成し遂げるように願うのであります。
この四つの願いは仏道を学ぶ者ならば誰しも持つべき願いなのであります。
私たち禅宗の修行においては、最も多くお唱えする経文であります。
毎朝の読経の折にも最後に必ず読んでいます。
また或いは托鉢して一軒一軒のお家の前でもこの四弘誓願を唱えます。
この四弘誓願こそ、仏道の基本であり、すべてであると言ってもよろしいかと思っています。
そしてかつて鴻盟社から「四つの願い」という小冊子を出したこともありました。
岩波書店の『仏教辞典』には
「原型は心地観経功徳荘厳品に見られ、定型的なものは智顗の『摩訶止観』10下に見られる。
古来、菩薩の整理・要約された誓願として<総願>と称し、口に唱えられた」と解説されています。
天台大師智顗は、四諦の教えによって四弘誓願を説かれています。
鈴木大拙先生は、「衆生無辺誓願度」を四弘誓願の一番目に掲げていることこそ、大きな意味があると仰せになっています。
更には「人類生存の究竟目的を示す」とまで書かれています。
そして「真誠の安心は衆生無辺誓願度に安心するに在り。これをはなれて外に個人の安心なるものあることなし。」(明治三四年一月二一日付け。『大拙全集』〔新版〕第三十六巻)とまで説かれています。
先日円福寺僧堂の師家である政道徳門老師に、歩行禅を教わりました。
その歩行禅の終わりに四弘誓願をお唱えしたのでした。
これに私は心の底から感動しました。
今日までこの四弘誓願は何遍唱えてきたか数えきれません。
そして四弘誓願について冊子を作ったり話をしてきたりしましたが、これほど感激したことはありませんでした。
法は学ぶにしたがって深くなることを実感しました。
禅文化研究所の『新・坐禅のすすめ』にある政道老師の『坐禅儀』の講話にも四弘誓願について触れておられます。
「白隐禪師は「四弘ノ誓願輪二鞭ウチ……」とうるさいほど言われます。
当然僧堂でも毎日毎日『四弘誓願文」を唱えます。
朝課や晚課では勿論のこと、日供合米(決まつた家を巡る托鉢)の時にも各家の玄関先で『四弘誓願文』を唱えます。
そうすると仮に五十軒の村を回れば、百ペんから百五十ペん唱えることになります。
しかし、それだけ回数を重ねても、なんだか実感が湧かない。
特に「衆生無辺誓願度」と唱える時に空しさを感じることがあります。
それは、内容に自分が追いついていないことに自分で気付いているからです。
平生はそのことに心を閉ざして済ましていますが、時々ふと思い出したように「実感が伴わないのは何故なのか?」と考えてこんでしまう……·。
私自身こういう日を何年も過ごしました。
四弘誓願さえこんな調子なのに況んや「大悲心」をや、というところです。
ある日ふと気付いたのが、自分はずっと「衆生無辺誓願度」と唱えながら「自分」を「救われる対象外」に置いていたということです。
「救おうとする衆生」の中に「自分」を含めていなかった。
これでは実感が湧くはずがない。」
と書かれています。
このように、老師は毎日読む言葉にも違和感を覚えて、そこから更に深められていったのです。
そして空念仏にならずに唱えるにはどうしたらいいか求められたのでした。
歩行禅の最後にゆっくり四弘響願文を唱えるようにするのです。
言葉にすればこれだけのことですが、これが実に深いのです。
老師は「言説・心念を離れて自性解脱したもの」と一つになっているまなざし、即ち智慧のまなざしで、四弘誓願文を唱えたいのだと仰せになっていました。
智慧のまなざしとは、無差別平等のまなざしです。
老師は、歩行禅を行って、呼吸と親しくなってくると、心のレベルが変わるというのです。
それはいつも見ている風景と違うような体験をします。
修行道場に来て初めて日供という、信者さんのお宅を回る修行をなされた方の話は印象に残りました。
地図を頼りに歩くのですが、その地図も手書きでわかりにくいのです。
一軒目にたどりつくか不安で仕方なかったそうです。
そんな不安な中で、これでは駄目だと思って、いろんな手段をすべて手放して、ただ呼吸に心を置きながら歩いたそうです。
そうすると、不思議なことに呼吸が一件目の家に連れて行ってくれたというのです。
これも法に導かれてゆくということでしょう。
智慧のまなざしは、そのまま慈悲であり、四弘誓願のまなざしでもあります。
老師は四弘誓願の訓読と意訳を次のように教えてくださいました。
衆生は無辺なれど、誓って度せんと願う
生命あるもの(自分を含めた一切衆生)の数は限りなけれども、誓って導かんと願う。
煩悩は無尽なれど、誓って断ぜんと願う
わずらいや悩みは尽きることなけれども、誓って断ぜんと願う。
法門は無量なれど、誓って学ばんと願う
道理の数は限りなけれども、誓って学ばんと願う。
仏道は無上なれど、誓って成ぜんと願う
さとりの道ははるかなれども、誓って成し遂げんと願う。
というのです。
唱え方は一唱目のときには一切衆生のうち、「自分自身」に重きを置いて、自分自身に向かって唱えます。
二唱目には、一緒に修行している「法友(仲間たち)」の顔と名前を、一人ずつ思い浮かべながら唱えます。
三唱目には、いよいよ一切衆生とつながっていくのです。
自分自身から後光が射すかのように、暖かい光が、東西南北·四維上下、全方向に広がっていくように感じて唱えます。
自分をふくめ、法友をふくめ、有縁の衆生、師匠や両親、世話になった人々をふくめ、無縁の衆生をふくめ、全世界に広がっていく、つながっていくように唱えます。
そんなご説明をいただいて皆で唱えました。
私は、こんなにゆっくり丁寧に唱えたことは今までありませんでした。
坐禅をはじめて五十年、出家してからも四十数年経ちますが、これほどゆっくり丁寧に四弘誓願を唱えたのは初めてでした。
老師が、朗朗とした素晴らしいお声で、
「衆生無辺誓願度」と唱えます。
そのあと私たちも皆で「衆生無辺誓願度」と唱えます。
そうして三遍繰り返すのです。
老師のお声が素晴らしいのと、みんなで唱和する声もまた素晴らしく、その声の中に溶けこんでゆきました。
身を心も放ち忘れて仏の慈悲の中に全身を投げ入れてしまったようでした。
そんなことを全身で感じたのでした。
まさに真の仏道に触れたという思いでした。
横田南嶺