歩行禅を習う
もう四年前のことになります。
この本の巻頭に、京都八幡の円福寺僧堂師家の政道徳門老師による『坐禅儀』を読むという講義があります。
この政道老師の坐禅儀の講義はかつて二〇一八年に発刊された季刊『禅文化』に掲載されたものを、政道老師が加筆して掲載してくださったのです。
二〇一八年の『禅文化』の玉稿を拝読して、私はとても大きな衝撃を受けました。
その思いは今も忘れられません。
これほどまでに深く坐禅のことを探求なさっている方がいらっしゃるのだと驚いたのでした。
この『新・坐禅のすすめ』には「歩行禅」ということも説かれていました。
どういうことかというと、
「坐禅の間に歩行禅を取り入れることで、実際に「動静間なく」正念を相続する感覚を学んでいきます。
歩行禅にも色々な方法がありますが、一つの方法として「呼吸にも心を置いたまま、その出入に合わせてゆっくり一歩一歩足を進めていく」方法があります。
すなわち吸う息に合わせて足を上げ、吐く息に合わせて足を降ろしていきます。
これは臨済宗の「速く歩く経行」は勿論、曹洞宗の「一息半歩の経行」と比べても、取り組む感覚が少し違います。
日々歩行禅を修習することで、実際に作務など「動中の工夫」のための下地を作ることができます。歩行禅に慣れてきたら、普通の速度で歩いている時、箒を持っている時、食事の時……と少しずつ工夫する範囲を広げていきます。またその際、呼吸に心を置いている時とそうでない時にどういう違いがあるかを学んでいきます。」
と書かれているのです。
これには大きな衝撃でした。
ここに書かれているように、臨済宗の経行というのは、坐禅の合間に、禅堂の周りをまるで走るようにサッサと歩くのです。
私などはそれしかしていませんでした。
曹洞宗では一息半歩という経行があると聞いていましたがほんの少し習っただけで、実際には行っていませんでした。
しかし、私は、この方法には何かあると感じたのでした。
これは実際にこの老師にお目にかかって教わってみなければ分からないと思ったのでした。
そんなことを思っていると、不思議と老師とご縁が結ばれるようになって、円福寺におうかがいして教わり、円覚寺にもお越しいただいてご指導いただいたことがあったのでした。
それからもう七年も経ちました。
先日円福寺の政道老師にお越しいただいて、歩行禅のご指導をいただきました。
これがまた感激でありました。
終わったあとに私は政道老師に感想を申し上げました。
それは「私は長年禅の世界に身を置いて道場をうろうろさまよってきましたが、今日ははじめて仏道に触れたと思いました」ということでした。
それほどの感激でありました。
政道老師は、一九七三年のお生まれで私よりもお若いのです。
京都府八幡市にある円福寺の修行道場で長年修行された方です。
ただ老師は、臨済宗の修行だけでなく曹洞宗やテーラワーダ仏教の御修行もなされているのです。
歩行禅はテーラワーダ仏教に基づいて、老師独自に工夫されているものです。
老師は、修行時代にテーラワーダ仏教の「歩行瞑想」を習って、そのあと坐禅に入るとそれまでと全く異なる体験が立ち上がったそうなのです。
それ以来、坐禅と歩行禅が相互に補い合う感覚を大切にしているのだと、先日のご講義でもお話くださっていました。
そして修行道場でご指導なさるようになってからは、その歩行禅を修行に取り入れるようになさっているのです。
老師は「禅は日常を重んじる教えであり。坐禅と日常が断絶せず、日常そのものが修行になるための工夫として歩行禅は有効である」と仰っていました。
老師の「歩行禅」の講座の前半はお話を拝聴しました。
老師はまず「修行の本質は「ダルマに触れる」ことです。」
と明言されました。
ダルマは法性とか、真の実在とも表現します。
老師が尊敬されている慈雲尊者は、ダルマとは「言説・心念を離れて自性解脱したもの」と表現されます。
言葉や思考にとらわれず、ただ現前する事実に触れることが大切だというのです。
老師は「修行の伝統や方法は多様ですが、本質はここに尽きます」とはっきりお示しくださいました。
呼吸に合わせた歩行禅を行うことで、呼吸や足裏の感覚と親しくなり、やがて言葉や思考を超えた実在、ダルマに触れる体験が生じてくると言われます。
「どんな修行であってもダルマに触れる体験によって自らの修行に信頼が生まれます。これは信仰ではなく「信頼」です。」と静かにそして力強く説いてくださいました。
この言葉の及ばない世界にふれて行くことが大事なのです。
そうして実際に歩行禅を行ってゆきました。
まずは立禅から始まります。
叉手といって胸の前に手を合わせて立つのです。
ずっと立ち続けていると足の裏の感覚が鋭敏になってきます。
その感覚を見ていると、足の裏で強い感覚が一点浮き上がってくるのだと仰っていました。
それもこちらから探してゆくのではなく、自然に浮き上がってくるのです。
いろんな感覚が生じては消えてゆきます。
それをただ味わってゆくのです。
老師の言葉に従って立っていると、たしかに足の裏にはいろんな感覚が表れてきます。
足の裏もいろいろと刺激を与えたり足の指を動かしたりしていますので、いろんな感覚が次々浮かぶものです。
それを言われた通りに、ただ味わっていました。
それから呼吸です。
はじめに1234と号令をかけて息を吸い、1234567と息を止めて、それから12345678と息を吐き出します。
四七八呼吸を実践しました。
しばらく行ったあとは、自然な呼吸に切り替えます。
鼻の穴の前、或いはお腹で感じるのです。
感じやすい方でいいのでした。
一呼吸一呼吸、それは慈雲尊者の仰る言説・心念を離れ自性解脱したものです。
鼻の穴の前で何が起こっているのか、お腹に何がおこっているのか、言葉をつけずに、思いも起こさずに、ただ味わうのです。
そうして歩行に移ってゆきます。
まずは言葉によるガイダンスを入れながら行います。
吸う息にあわせて、足が上がっていきます。
吐く息にあわせて足が降りていきます。
足裏が畳に着いて体重移動します。
そして言葉で「吸っている、吸っている、吸っている···」とかけながら足をあげ、「吐いている、吐いている、吐いている···」と言葉にしながら足を降ろします。
それぞれ心の中で言葉を使ってガイドするのです。
その時の注意点としては「言葉に呼吸を合わせてはいけない」のです。
あくまでも自然な呼吸があって、それに言葉が合致していくようにします。
心の向かう主体はあくまでも呼吸だと老師は教えてくださいました。
その呼吸に足の動きがしたがっていくのです。
呼吸が九割、足の動き一割と意識するのです。
それから更に今度は、言葉によるガイドを止めました。
それこそ、言葉と思考を離れて ただそこで起こっている呼吸と一つになりながら(「言説・心念を離れて自性解脱したもの」を味わいながら)、それに足の動きがしたがっていくというのです。
そうして、ゆっくりと各自畳二畳ほどの間を往復しながら歩いていました。
これがなんとも言えないのです。
寝る禅を行って畳と一体になるような、イス禅を行って空間の中に自分が溶けてしまうような感覚ととても似ています。
ただ微かな動きがありますので、微かな風が吹いているような感じであります。
どれくらいの時間を行ったのでしょうか。
気がついたら終わっていました。
そんなに長い時間ではありませんが、何時間も坐禅した時のような爽快感や充実感が感じられました。
老師のご指導が素晴らしいので、その指導に従うままに歩いていると、ダルマの中に浸っていたという感じがしたのでした。
横田南嶺