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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.09.19
今日の言葉

禅を感じる

先日は円覚寺で、禅文化研究所の夏季講座が開催されました。

百名を超える方々がご参加くだいました。

夏季講座とはいえ、もう九月、少し秋の気配を感じる日でありました。

今回のテーマは、「禅を感じるー坐禅と提唱」というものです。

四部構成で行われました。

第一部が禅文化研究所理事長であり、平林寺僧堂の師家である松竹寛山老師の坐禅実習講座がありました。

それから第二部は、小川隆先生によるご講演です。

演台は「禅の語録を読んでみる」――禅者の失敗」というものです。

それから第三部は私が提唱をしました。

これはできる限り伝統的に行われている提唱を行いました。

臨済録の上堂の冒頭の部分を提唱しました。

そして第四部は鼎談となりました。

「提唱」についてというテーマで、松竹老師、小川先生と私との三人で鼎談をしました。

かくして午後一時から五時までの長時間にわたる講座となりました。

まず松竹老師の坐禅実習はとてもわかりやすく、坐禅をするには大いに活かすことのできる内容でした。

まずはじめに簡単に肩や首をほぐして身体を楽にさせました。

そして基本動作を行いました。

合掌、低頭問訊、叉手という基本の動作を一、二、三と号令をかけながら丁寧に行いました。

こういう動作で身体が調い、これから坐禅しようという心になってゆくものです。

それから内観の法を立って行いました。

気海丹田腰脚足心と声に出しながら、お腹をさすり、腰まわりをさすり、太ももからすね、そして足までさすります。

このように声にだして実際にその場所をさするだけでも気持ちが下の方へと下がってゆくのがわかります。

私たちは普段頭を中心に活動しています。

今日もこれから何が始まるのか、頭であれこれと考えています。

それが気海丹田腰脚足心と声に出してさすることで、下腹かた下半身に気持ちが下がるのです。

それから内観の法も簡単に実習しました。

手をこすり合わせて気のボールを作って、それが素晴らしい薬だと思って、頭上において、そのお薬がずっと溶けて全身を浸してゆくようにイメージするのです。

これらは皆禅定を深めるために行うのだと仰っていました。

そして呼吸を調えます。

数息観を教わりました。

なかなか一息一息を数えるのは難しいものです。

老師は難しいと感じる方は、吐く息を「一二三四五」と号令をかけて吐き出すという方法を教えてくださいました。

これはとてもやりやすいものです。

そうして一回目が十分の坐禅、途中少し立って身体をほぐして更に十分の坐禅をしました。

老師のご指導に従って坐るととても坐りやすく、老師ご自身も坐禅の終了の鐘を叩くのがもったいないと思ったと仰っていました。

次は小川先生によるご講義であります。

季刊『禅文化』277号の巻頭にある小川先生と私との対談記事に触れられました。
その中で私が『臨済録』について、

「虚心坦懐に読めば、『臨済録』も多くの語録の一つだったはずだし、何より臨済その人が自分を神聖視されることを好まなかったはずだと思えます。」

と述べています。

それにたいして小川先生が、

「確かに『臨済録』には、『臨済録』という書物を神聖視・絶対視させないための仕掛けが何箇所かに含まれているように思います。」

とお答えになっていて、

『臨済録』にある、王常侍の視察、普化による翻弄、三聖の喝という三つの話頭を取り上げて解説くださいました。

岩波文庫の『臨済録』に次の現代語訳があります。

入矢義高先生の訳を参照します。

「ある日、王常侍は師を訪ね、僧堂の前で出会って問うた、
「この堂内の僧たちはお経を読みますか。」
師「お経なんぞ読まない。」
「では坐禅をしますか。」
師「坐禅もやらない。」
「お経も読まず坐禅もやらないとすれば、いったい何をしますか。」
師「かれらをみんな仏や祖師にならせる。」
「『黄金の細片は貴重な品だが、眼に入ったら眼病を起こす』。いかがです。」
師「これまでお前さんをただの俗人だとばかり思っていたが、(なかなかやるね。)」

という問答です。

小川先生は、

「禅というと悟りを目指す宗教であり、迷いを克服して清らかな悟りの世界を目指す宗教と思われている場合が多いけれども違うんです。

悟りにたどり着いたら悟りを踏み破っていく。

正しいという答えに呪縛されない、正しさに縛られないということが、禅の世界では説かれています。

聖なる悟りは、尊いけれども目に入ったら、新たな囚われになる」

と仰っていました。

これは臨済禅師が王常侍に「ただの俗人だとばかり思っていたが、(なかなかやるね。)」と言っているように、やり込められているのです。

臨済禅師という方を決して完全無欠な尊い存在とはしていないのです。

この話は『祖道集』には別の禅僧の話として出ているようです。

それが後に臨済禅師の話として『臨済録』にいれているのです。

小川先生は「よその人の失敗談をわざわざ臨済禅師の話に書き換えて語録の中にいれているのであり、これが臨済禅師を絶対視させないしかけだ」と解説してくださっていました。

臨済禅師遷化の話も取り上げられました。

臨済禅師が末期に臨んで、弟子達に我が滅後我が正法眼蔵を滅することのないようにと言いました。

すると弟子の三聖がどうして禅師の正法眼蔵を滅ぼしたりしましょうかと言います。

臨済禅師はもし誰かがあなたに問うたらどう答えるのかと迫ります。

三聖はすかさず一喝しました。

それを聞いた臨済禅師は、「あに図らんや、わが正法眼蔵はこの目の見えない驢馬のところで滅びてしまうとは」と言ったのでした。

この言葉は、古来臨済禅師が三聖を大いに認めた言葉だとされています。

しかし入矢先生は「解説」の中で、

「また臨終に際しての三聖への一言「あに図(はか)らんや、わが正法眼蔵はこの盲の驢馬のところで滅びてしまおうとは」(二一一頁)は、平心に読めば、まさに落胆の嘆息であるが、しかし宋代ではほとんど例外なくこれを高い趣旨に取って、三聖に法を託したものとさえする。」

と書かれています。

この話は宋代になって加えられた一節です。

わざわざこんな話を入れたのも、臨済禅師を神聖視させないしかけだというのです。

臨済禅師を神聖視せず、臨済禅師を乗り越えてゆくようにという意図があるというのであります。

聖なる呪縛、正しさの呪縛からの脱却が説かれています。

そういうところに「臨済録の風通しのよさ」を感じると小川先生は語ってくださっていました。

そんなご講義を受けた上で、私の提唱の時間となりました。

伝統の提唱をするということなので、袈裟法衣を着けて、太鼓の合図でお経をあげて、そのお経の間に三拝して講座台に登って行いました。

私の時間は三十分のみで、太鼓を打ったりお経をあげたりして、実際に話をするのは十五分ほどになりました。

簡潔にお話して鼎談になりました。

提唱についての思い出を聞かれた松竹老師は、お若い頃に初めて糸原圓應老師の提唱を拝聴した時のことを語られていました。

その時の老師の立ち居振る舞い、お声、お姿に感動したのだとしみじみ語ってくださっていました。

それぞれ提唱の思い出を語ったりしました。

坐禅の実習に語録の講義、そして伝統的な提唱と皆さんに禅を感じてもらうように行ってみたのでした。

 
横田南嶺

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