完全な調和がある
私もありがたく拝聴させてもらっていました。
松山さんのことは、今年の七月八日の管長日記に、「最期は美しい」と題して書かせてもらっています。
私よりも二歳年上でいらっしゃいます。
福岡のお生まれで早くに結婚して子供も授かりました。
その後に離婚され、認知症を患う祖母、七〇代目前の母に、二人の娘という一家五人の生計を、松山さんが一人で支えていらっしゃいました。
働きながら資格が取れる看護学校に入学され看護師になる勉強をなされました。
朝から見習い看護師として働き、午後は授業を受け、夜勤に励む毎日だったそうです。
それに子育てもありますし、祖母の介護もあります。
とうとう体を壊してしまいました。
看護学校に通っておられた時に、アルフォンス・デーケン氏の本に出会って、死を考えることがよい人生に繋つながるという死生観を学んでおられました。
病気は奇跡的に回復し、退院後に正看護師の資格を取得されました。
離島で看取りのお仕事もなさっておられました。
その後ご縁が熟していって、松山さんは四十八才で、出家して僧となりました。
それから臨済宗で尼僧さんの道場である天衣寺で三年半ほど修行されました。
修行を終えて、ご縁があって姫路市にある不徹寺にお入りになっています。
今回修行僧達のために
「修行における我慢を培う意味」
という題で、資料をご用意くださり、二時間にわたってお話くださいました。
資料のはじめには、
「「我慢しなさい」という言葉を、私たちは日常の中でよく耳にします。現代日本語での我慢は「耐える」「辛抱する」という意味で使われますが、仏教の原語サンスクリット語*アハマーナ*は「我への執着」「慢心」を指すそうです。本来は美徳ではなく煩悩の一つです。
この小冊子では、日本文化で美徳とされた我慢の意味を振り返り、修行僧がどのように培うべきかを考えてみました。」
と書かれていました。
たしかに「我慢」という言葉は、『広辞苑』にも
第一に「自分をえらく思い、他を軽んずること。高慢」だと書かれています。
松山さんは、
「仏教での「我慢」は慢心、つまり「自分が正しい」「自分が優れている」という執着です。
しかし日本では、武士の生き方を通じて「自分を抑える」「感情を抑える」ことへと転じ、美徳とされてきました。
「武士に二言なし」という言葉は、約束を必ず守る姿勢を示し、ここに日本独自の精神文化が育まれたようです。」
と書かれています。
我慢は、抑圧ではなく自分を練り上げ、慈悲を生み出す行になるのだとお話くださっていました。
仏教で大事にしている「忍辱」の修行であると思いました。
他人と比べることをせずに自分自身に向き合うことだと教えてくださいました。
また自分を控えることだとも仰せになっていました。
控えるという字は、手に空を持つと書かれていて、自分を控えることで人としての品性が育つのだというのです。
それから「待つ力を養う」についてお話くださいました。
「待つ」ことは大事であります。
その日も松山さんをお迎えに駅で待っていました。
三十分以上は待っていたかと思いますが、待つ時間というのはいいものです。
何もしないで待つのです。
寺にいると、なにかしらの仕事に追われていますが、人を待っているときは、ただ待っているので、その時間はいつも自分では尊いものだと感じています。
松山さんも待つことで、余裕ができ、すきな時間ができ、考えることができるとお話くださいました。
それからまず自分に対して待つことが大事で、それが出来てこそ人を待つこともできるのだと説かれていました。
待つことは決して無駄なことではありません。
松山さんは、その人の為に時間を費やすことであり、自分の時間を誰かの為に捧げることなのだと言われました。
相手を思い待つ時間は豊かな時間だと私もいつも思っています。
それから今回一番印象に残ったのは、自分自身に素晴らしい調和が具わっているというお話でした。
いただいた資料には、
「我を控える(抑える)ことで自然な調和が生まれます。
呼吸や血液の循環のように、命は本来調和の中にあります。
禅でいう「平常心」とは、この静けさに気づくことです。
自分を控え、譲ることは犠牲ではなく慈悲だと思います。
産まれたての純心無垢な自分に立ち返って、自然な調和を感じてください」
と書かれていました。
指の先まで血流が通っていること、心臓が身体全身に血液を送りながら、実に静かな鼓動を繰り返していること、静かに呼吸していること、身体の中にはすでに完全なる調和があるというのです。
絶妙のバランスを保って動いているのです。
自分の中に完全なる調和があるので、他と調和ができないはずはないというのです。
完全な調和が一人一人の命に具わっているのです。
自分の肉体に調和があると自覚されると、自分を控えて相手を尊重することができます。
自分を控えるのが松山さんの説かれる我慢であって、犠牲ではなくまさしく慈悲の実践なのです。
「我慢」の先にあるのは「自由」だと説かれていました。
完全な調和のとれた、生まれたての無垢な自分というのは、まさに盤珪禅師が説かれた不生の仏心に通じるのです。
苦しいときがあればいつでもこの純真無垢な自分に立ち返るのです。
見事に調和された肉体と共に前進してゆくのだと力強く説いてくださっていました。
お互いが調和のとれた完全体であることを自覚して、自分を控え相手を尊重し慈悲を実践するのです。
松山さんは今お寺で実践されています。
今の多く方の悩み苦しみの相談にのってくださっています。
これからの時代は人口減少や過疎化の問題もあってお寺の存続も厳しくなってきます。
松山さんは修行僧たちに、多くの方にこのお寺に行ってみたいと選ばれるように、この和尚さんに相談してみたいと望まれるようになってほしいとお話くださいました。
淡々とお話くださりながら深くそして力強いお話でありました。
横田南嶺