犀のうちわ
「あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ 況んや朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。」
と説かれています。
インドの犀の角は一本で、アフリカの犀の角は二本だと言われます。
インドの犀は、一本の角なので、犀の角のように独り歩めと説かれたのです。
古代の中国にも犀はいたようであります。
『詩経』や『礼記』にも犀の名が記録されているようです。
儀礼用の犀角や犀皮が珍重されていたらしいのです。
『広辞苑』には、「犀」は、
「インドサイ・ジャワサイ・スマトラサイ・クロサイ・シロサイの5種。体長2~4メートル、体重は1~3.5トンに達する。頭は大きく首は短い。四肢には、それぞれ3本の指をもつ。皮膚は角質化して固く、特に前頭部の正中には角質化した1または2本の角がある。これを犀角といい、漢方で解熱薬。アフリカ・東南アジアの草原・湿地にすむ。草食。」
と記されています。
「犀角」は、
「①犀の角。邪気を払い、毒を消すなどの霊力をもつとされ、魔除けのほか細工物に用いた。
②犀の角の先端部を粉末にした生薬。漢方で解熱薬。」
と解説されています。
犀は唐の時代頃になると、南方から献上品となっているようです。
中国本土には生息しなくなっていたのだと察せられます。
禅語に「犀は月を翫ぶに因って紋角に生じ、象は雷に驚かされて花牙に入る」というのもあります。
犀の角で作った扇についての問答が『碧巌録』にあります。
「塩官一日、侍者を喚ぶ、我がために犀牛の扇子を将ち来れ。
侍者云く、扇子破れぬ。
官云く、扇子既に破れなば、我れに犀牛児を還し来れ。
侍者、対無し」
というものです。
塩官は馬祖のお弟子の塩官斉安禅師(七五五~八一七)のことです。
この方が侍者に、犀牛の扇子を持って来いといったのでした。
犀牛は犀のことです。
先日湯島の麟祥院で勉強会を行っていました。
小川隆先生の『宗門武庫』の講義と、私の『臨済録』の講義であります。
小川先生のご講義では、『宗門武庫』でこの公案が扱われていました。
この公案は、私などは『碧巌録』で学んでいましたが、今回小川先生の懇切丁寧な解説を拝聴してより一層理解が深まりました。
まず犀牛の扇子というので、日本で使う扇だとばかり思っていました。
これは今の扇ではなく「うちわ」なのです。
小川先生によれば「中国で「せんす」が一般化するのは明代からだが、ごく希少な例としては北宋代にも存在したらしい」ということでした。
これだけでも想像していた物が変わりました。
犀牛の扇子も「犀の角でできた団扇、あるいは犀の絵が描かれた団扇」という二つの解釈があるようです。
『従容録』第二十五則本則評唱に、
「諸方、扇に犀牛玩月を画くと謂い、
或いは犀角もて扇を為ると云い、
或いは犀を以て柄を為ると云う、
皆な名づけて犀牛扇と為すを得るなり」
とあって、犀牛が月を玩ぶ絵を描いたのも、犀の角で作ったのも、犀の角を柄としたのも皆犀牛の扇というようなのです。
塩官禅師が、そんな犀のうちわを持って来いと侍者に言ったのでした。
侍者は、うちわはもう壊れてしまっていますと答えました。
うちわが壊れたなら、私に犀を返しなさいと言いました。
そう言われて侍者は答えられなかったという話なのです。
侍者が答えられなかったので、後の禅僧たちが代わりに答えるようになりました。
投子禅師(八一九~九一四)は、持って来いと言われるなら持ってまいりますが、残念ながら壊れていて役にたちませんよと答えました。
後に『碧巌録』では雪竇禅師が、私はそのこわれたのが入り用なのだと言いました。
石霜禅師(八〇七~八八八)は、もしあなたに返してしまうと、私のがなくなってしまいますと答えます。
雪竇禅師は、なにをいうか、犀牛は今もあるぞと言いました。
資福禅師は一円相を描いてその中に牛という一字を書きました。
雪竇禅師は、そんなにあったのならさっき持ってくればよかったのにと言いました。
保福禅師(?~九二八)は、お師匠様はもうお年を召されました、私のような者では侍者はつとまりませんので他の方に頼んでくださいと言いました。
雪竇禅師は、残念だ、骨折り損のくたびれもうけと言いました。
こんなやりとりが載っているのです。
これなども禅問答して調べてゆくもので、一句ごとにどのように見るかについて、老師と修行僧は問答を繰り返すのです。
小川先生は「塩官の最後の語は難解だが、おそらく、全一にして普遍なる本来性(性・理)と現実態の個物(相・事)との不可分または不即不離を前提としつつ、敢えて、後者を離れて前者そのものをこの場に体現できるかと問うたもの」とご高察なされていました。
薬山禅師の問答を示してくださいました。
薬山禅師が、お釈迦様のお生まれになった日の法要で、仏様を洗っている時に、修行僧に、洗っている仏像をさして、これは洗えるが、あれは洗えるかと問いました。
これというのは実際に眼の前にある仏像です。
あれというのは姿形のない法身です。
すると修行僧が、そのあれをここに出してください、洗ってみせましょうと言いました。
これには薬山禅師も答えられなかったという問答です。
そこから個物としてのうちわと、法身としての犀という対比でこの問答について解説をしてくださいました。
懇切ていねいなご解説で、これでどうだろうかと聞かれましたが、私にはよく分からない問答です。
学生の頃、ある老師が禅問答の古則を講じられていたのを聞いて驚いたことがありました。
それはこの犀牛の公案ではありませんが、ある公案について、こんな問答はたしかに公案としては調べてみせてもらったけど、何を言っているのか私には分からないとおっしゃったのを聞いて驚いたのでありました。
そんなに修行しても分からないというのかという驚きで、それからこの御老師が分からないと言われたその謙虚なお姿に感動しました。
そんなことがあるのかと思って聞いていましたが、あれから四十年あまり禅門に身を置かせてもらって、今同じように思うのです。
たしかにこの公案も修行時代に老師と問答して調べさせてもらいました。
老師に対して得意になって見解を示し、著語をおいて自分としてはまさに意を得たりという気持ちでありました。
しかし今に到って何を言わんとしているのか分からぬものだとしみじみ思います。
塩官禅師にしてみれば、うちわは壊れても、犀の角は貴重品なので、取っておいて持って来てといっただけかもしれません。
それが少し後の時代になって代語が置かれ、更に著語が着けられ、それについてあれこれと問答商量するようになっていったのです。
分からぬと開き直るわけでもないのですが、分からぬものがあってもいいという思いであります。
では、長い間修行と称して何をしてきたのかと思いますが、今まさに労して功なしと思い至ります。
その日は九月ながら、真夏を思わせる暑さでした。
ただ暑いので、うちわで扇いで風を起こしたいものでした。
横田南嶺