天性、禅を会す – 黄檗禅師のこと –
ただ、いろんな逸話が伝わっていて、そんな話から修行ぶりがわかります。
碧巌録の第十一則の評唱にこんな話があります。
「黄檗、身の長。七尺、額に円珠有り。天性、禅を会す」
とその人となりが簡潔に書かれています。
山田無文老師は、『無文全集第一巻碧巌録1』で
「この黄檗という人はよほど体格のがっちりした人であったと見える。
身の丈が七尺もあり、額には礼拝瘤という、お釈迦さまの白毫のような瘤があったということである。
每日、額を地ベたに叩きつけて礼拝をするので、瘤ができたと言われておる。
生まれながらにして禅を会得したような人であった。」
と解説してくださっています。
そのあと、雲水時代の逸話が書かれています。
黄檗禅師が修行時代に天台山に行かれたときのことです。
天台山は中国仏教の聖地であります。
道で一人の雲水と出会いました。
お互い修行する者同士で、あれこれと話しながら行脚をしていました。
それはあたかも昔から知り合っていた仲のようであったといいます。
よほど話が合ったのでしょう。
その相手の雲水の人相をよく見ると、実に眼光の鋭くて普通の人間とは違うところがあったようです。
そんな修行僧と一緒に歩いているうちに、天台山の谷川の水がいっばい満ち溢れているところにぶつかりました。
そこには橋もかかっていません。
浅い谷川ならば、浅瀬を探して渡ることもできます。
また飛び石づたいに渡ることも可能です。
しかし、その日は水が増えていて渡ることは無理のようでした。
黄檗禅師は仕方がないので、川のほとりに杖を立てて笠を取って、しばらく立っていました。
これは無理だなと思っていたのでしょう。
すると、その修行僧が黄檗禅師に言いました。
「渡ろうじゃないか。待っていたって水は引きはしないよ」
というのです。
黄檗禅師は「渡りたかったら、先に行ってくれ」と言いました。
すると、この修行僧は、衣をたくし上げて、まるで平地を歩くかのように悠々と波の上を歩いて行ったのでした。
そして、黄檗禅師の方を振り返って、
「おい、早く来いよ」と言います。
黄檗禅師はその修行僧を怒鳴りつけて言いました。
「這の自了の漢、吾れ早く捏怪なることを知らば、当に汝が脛(すね)を斫(き)るべし」
と原文には書かれています、ー
この自分だけ悟ったつもりでいて、自分だけ救われればいいと思っているやつめ。
そんな隠し芸をすることを知っていたなら、とっくにその脛をへし折ってやるところだったと言いました。
すると、その修行僧が黄檗禅師のことを讃歎して、
「真の大乗の法器なり」と言いました。
あなたこそ、本当の大乗の教えを受け継ぐに足る器であると言ったのでした。
無文老師は、
「天台山には五百羅漢を祀ってあると言うが、この僧は羅漢の一人であったに違いない。
黄檗の若きころ、まだ見性もしない時代に、既にそういう羅漢を叱りつけるような力を持っておったというのである。
天性、禅を会すところである」
と説かれています。
その後黄檗禅師は百丈禅師のもとに参じます。
百丈禅師は初めて会う黄檗禅師に
「巍々堂々として什麼の処よりか来たる」と言いました。
威風堂々としてどこから来たのかと問うたのです。
こういう問いからも、黄檗禅師は体格の大きかっただけでなく、器量の大きかったのだと察せられます。
すると黄檗禅師は、
「巍々堂々として嶺中より来たる」と答えています。
「巍々堂々として嶺中のほうより参りました」というのです。
自信満々の答え振りです。
百丈禅師が「来たること何の事の為ぞ」
と問います。
何しに来たかというのです。
黄檗禅師は「別事の為ならず」と答えます。
雲水が行脚して修行するのは、己事究明以外に何の目的がありますかと言わんばかりです。
こんな初対面の問答で、百丈禅師は黄檗禅師の力量を認められました。
ところが、明くる日になると、黄檗禅師はもうおいとましたいと言いました。
そこで、百丈禅師は、「昨日来たばかりじゃないか。これからどこへ行くのか」と問います、
黄檗禅師は「江西のほうへ行って、馬祖道一禅師を礼拝したいと思います」と答えます。
百丈禅師は馬祖禅師のお弟子でありました。
その時には馬祖禅師はもうお亡くなりになっていたのです。
百丈禅師は「それは残念だ。せつかくだけれども、馬祖大師はもうおかくれになつた」と告げました。
すると、黄檗禅師は
「わたくしは、何でも馬祖大師にお目にかかりたいと思ってはるばる参りましたが、因縁が薄くてご生前にお目にかかれないというのは、まことに残念です」
と言います。
「すでにご遷化されたのならば仕方がありません。
馬祖大師が平生お説きになつたお言葉があったら、一つお聞かせ願いたいものです」とお願いします。
そこで、百丈禅師が黄檗禅師に伝えたのが、自ら馬祖大師に再参した話でありました。
これが後に百丈再参の公案として伝えられます。
こちらは禅文化研究所の『宗門葛藤集』にある道前宗閑老師の現代語訳を引用します。
「百丈が再び馬祖に参じた。百丈が馬祖に侍して立っていた折、馬祖が禅床の角にある払子を見た。
馬祖は百丈が来るのを見て払子を取り上げ、立ててみせた。
百丈は云った、「師の働きは払子に即してのことですか、離れてのことですか」。
馬祖は払子を本の場所に掛けた。百丈は侍立したまま。
暫くして馬祖が問うて云った、「お前さんは今後、口を開いてどう学人を接化するのか」。百丈は払子を執って、立ててみせた。
馬祖は云った、「払子に即しての用か、離れての用か」。
百丈は払子を本の場所に掛けた。
馬祖は威を振るって一喝する。百丈は大悟した。
後になって百丈は黄檗に云った、「儂はその時、馬祖に一喝せられ、直ちに三日耳が聾になってしもうたわい」と。
黄檗は畏れ戦き、思わずべろりと舌を吐き出した。」
という問答です。
無文老師は、「この百丈の話を聞いて、黄檗、いかにも驚いて、思わずワーッと口を開いた。何とものすごい和尚じゃなア、と言わんばかりに舌を吐いた。
忽然として、そこで悟りを開いてしまったのである。
百丈再参の話、馬祖一喝の話を閱いただけで、黄檗,忽然として悟りを開いてしまつた。」と解説されています。
かくして後に臨済禅師の師となる黄檗禅師が誕生したのでした。
横田南嶺