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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.09.08
今日の言葉

ただ礼拝す

黄檗禅師は、臨済禅師のお師匠さんです。

黄檗希運禅師といいます。

この黄檗禅師については分からないことが多いのです。

筑摩書房『禅の語録8 伝心法要・宛陵録』に、黄檗禅師について柳田聖山先生は次のように書かれています。

「黄檗、いみなは希運で、福州閩県(現在の福建省閩侯県)の出身であるが、先に述べたように、すべての資料がその俗姓を逸している。

また、かれの入寂は、一般に大中年間(八四七-八五九)と言われるのみで、その年寿をも欠くから、生年を明らかにすることもできぬが、かりに潙山霊祐と同年輩と推定すれば、大暦・建中のころ(七六六-七八三)の出生となる。

いったい、当時の福州は蠱毒(マラリヤ)の境と言われて、嶺南の韶州が流謫の地であったのと同じように、中原より遠く離れて、まさしく文化の光の果つるところであった。

ところが、あたかもかれの出生に先き立つころ、のちにかれの師となる百丈や、同門の潙山、西院大安(七九三-八八三)等が、一時にこの地から出ているのは、すでに安史の乱以後における地方勢力の胎動を思わせ、曹谿慧能を祖と仰ぐ南宗禅の運動が、そうした地方の風土と無縁でなかったことを立証する。

頹廃的な盛唐期の都市文化を拒否して、大地をふみしめて生きる野人の登場を、歴史はすでに待っていた。」

と生まれそだった土地柄について書かれています。

そして「こうして、福州に生れた希運は、若くして郷里の福州黄檗山で出家するが、かれが後に江西の洪州に近い高安県に黄檗山を開創するのは、出身地の寺名を慕ったためとされ、かれはこの寺の名によって黄檗希運と呼ばれるのである。

福州黃檗山の由来は明らかでないが、貞元頃の建立で、この地方の仏教の中心地であったらしい。」

と出家された寺について書かれています。

「福州黄檗山は、おそらく創立の当初より、官設の開元寺などと対抗して、新しい禪の道場としての意図を負うものであったと思われる」とも書かれています。

更に

「希運は、堂々たる偉丈夫であった。

先にいうように、身長七尺、額のあいだに肉珠があったことは、裴休がかれに贈った詩にもうかがわれるが、とくに漢の王商より一尺低かったというのを見ると、かれの堂々たる長身はよほど異色あるものであった。

『四家語錄』によると、かれが南泉普願のところにいた頃、ある日二人で笠をかむって外出したとき、南泉がかれを見て、「君のような大男が、そんなちっぼけな笠を戴いている」と言って笑うと、希運は「三千大千世界がすべてこの中に入るぞ」と答え、南泉が「わたしもだね」と言ったので、希運はさっさと歩き出したという。

とにかく、かれは大男で、若い時から仲間からかけはなれて、何ものにもこだわらず、時流を見下だす気概をもっていたらしい。

のちに、「大唐国内に禅者なし」と言い、「汝らすべて噇酒糟の漢(酒かすばかり食らっている奴)だ」と批判するのは、いかにも豪放な田舎ものの言葉にふさわしい。」

とその体格と性格について書かれています。

大男であり、そして当時の禅僧たちと、古人の言葉ばかりを覚えて得意になっているというので、酒粕くらいのやつばかりだと痛烈に批判していたのでした。

しかしながら、『碧巌録』の評唱には、常に礼拝をなさっていたということも書かれています。

大中天子という、後の宣宗という皇帝になった方との問答が書かれています。

ここは山田無文老師の提唱を参照します。

「その後、大中は塩官のところに行った。

馬祖の法を嗣がれた塩官斉安国師である。

塩官はこの大中のことを知っておったと見えて、普通の雲水とは一緒にせずに、文章がうまいというので書記をさせておった。

ちょうどその時、黄檗がそこで直日をしておったのである。

黄檗は額に瘤ができるほど礼拝をしておったということである。

一日、この黄檗が仏前で礼拝するのを書記の大中が見て問うた。

「仏に著して求めず、法に著して求めず、衆に著して求めず、礼拝して当に何の求むる所ぞ」

大中が黄檗を冷やかして言うたのである。

禅宗坊主が仏を礼拝するなんぞ、何てザマだ。

維摩経の中にも、「仏に著して求めず、法に著して求めず、衆に著して求めず」とあるじゃないか。

禅宗坊主が仏を拝んで、いったい何を求めておるのか。

求めるものはないはずじゃないか、と。

すると黄檗が、

「仏に著して求めず、法に著して求めず、衆に著して求めず、常に礼すること是の如しーそうじゃ、わしは何も求めてはおらん。ただ礼拝しておるだけじゃ」」

というのであります。

実にあじわいの深い問答なのです。

無文老師は

「天性、禅を会し、大機大用と言われた黄檗ほどの人が、每日慇懃に仏を礼拝されたのである。

そこに尊いところがあるのである。

いかにも規矩規繩にとらわれない大機大用の人であるけれども、每日何百ペんの礼拝をするというような綿密のところもあるのである。

それでこそ黄檗でなければならん。」

と解説してくださっています。

しかしそのあとに、

「こう黄檗に言われたのであるが、大中もなかなが負けてはおらん。

「礼を用いて何か為ん-それなら礼拝しても意味はないじゃありませんか」

すると黄檗、貴様に分かるかッ、と言わんばかりに大中の横面をプン殴った。

大中、驚いて、「太麁生ー乱暴なことをなさるな」

「這裏什麼の所在ぞ、麁と説き、細と説くー礼拝すること是の如し、という俺の境地には麁もなければ細もないわいっ」
こう言うて黄檗、また大中の横面を殴った、と。

そういうはたらきが黄檗にはあるのである。」

と書かれています。

慇懃に礼拝するかと思いきや、横面を張り倒すはたらきとが同時にあるのです。

後に臨済禅師が修行中に雨安居の途中で黄檗禅師を訪ねると、看経していたという話があります。

これもまた不立文字教外別伝ということは承知の上で、なおも綿密にお経を読んでおられるお姿が尊いのであります。

何も求めず、ただ礼拝しているだけだという、黄檗禅師の礼拝を慕うのであります。

 
横田南嶺

ただ礼拝す

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