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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.09.03
今日の言葉

壁を壊す

毎年九月に長野県茅野市にある諏訪中央病院に行って、「ほろ酔い勉強会」にお邪魔しています。

毎年いろんなテーマを決めて、漢方医の桜井竜生先生と諏訪中央病院の須田万勢先生とで話し合っています。

今年のテーマが、『「自分の壁」を壊す』というのです。

そこで、たしか養老孟司先生にそんな本があったと思って調べてみました。

養老先生にはまさに『「自分」の壁』という本があります。

早速本を購入して読んでみると、はじめに、『奇跡の脳』の本のことが書かれていました。

どんな本かというと、カバーには次のように書かれています。

「脳科学者である「わたし」の脳が壊れてしまった――。

ハーバード大学で脳神経科学の専門家として活躍していた彼女は37歳のある日、脳卒中に襲われる。

幸い一命は取りとめたが脳の機能は著しく損傷、言語中枢や運動感覚にも大きな影響が……。

以後8年に及ぶリハビリを経て復活を遂げた彼女は科学者として脳に何を発見し、どんな新たな気づきに到ったのか。

驚異と感動のメモワール。」

と書かれています。

脳神経科学の専門家が、実際に脳卒中になって、自分の脳の機能が壊れていくと、どのようなことが起こるのかを書いているのです。

養老先生は、この本のことを次のように紹介されています。

「有名なのは、アメリカで脳神経解剖を研究している女性の学者ジル・ボルト・テイラーさんの例でしょう。

彼女は三七歳のときに、脳卒中を起こして左脳の機能を破損してしまいました。

ふつうの人は、脳内で出血したら、何が何だかわからなくなって倒れるだけでしょう。

しかし、彼女は専門家なので、出血した際に「ああ、これは脳の出血かなにかを起こしたな」ということが、すぐにわかったそうです。

そして、これから自分の身に何が起こるのかを憶えておこう、と意識したのです。

脳がふつうに働かなくなりながらも、次のように考えていたそうです。

「いいわよ、のうそっちゅうがおきるのを止められないならそれでいいけど、一週間だけね!

ついでに、どんなふうに脳がげんじつの知覚をつくり出すのか、知りたいことを学べばいいんだから」(「奇跡の脳-脳科学者の脳が壊れたとき』〔竹内薰訳 新潮文庫〕より。以下同)」

と書かれています。

更に。

「そして鏡の中に見える自分に対して、「これから体験することを全部おぼえおくように」と語りかけました。

これはテイラーさんの職業意識の賜物でしょう。

そして実際に回復してから、自分の経験を『奇跡の脳』という本にまとめたのです。

そこには空間定位の領野が壊れたらどうなるかが、見事に描かれています。

まず何が起こったか。彼女は自分が液体になったようだったと書いています。

「からだは浴室の壁で支えられていましたが、どこで自分が始まって終わっているのか、というからだの境界すらはっきりわからない。

なんとも奇妙な感覚。

からだが、固体ではなくて流体であるかのような感じ。

まわりの空間や空気の流れに溶け込んでしまい、もう、からだと他のものの区別がつかない」

私たちは、自分のことを形ある固体だと思っていますが、空間定位の領野が壞れると、それが液体になってしまう。

液体は決まつた形をもっていません。」

と書かれています。

これは実に空の世界でもあります。

空の世界には境界がないのです。

姿形がありません、限定されるものがないのです。

更に養老先生は、

「ずるずると広がって流れていく。

ずーっと広がっていくと、どうなるか。

テイラーさんは自分が世界と一緒になってしまうような感じになったのだと言います。

これは理屈で考えるとよくわかる話です。

「自分と世界との区別がつくのは、脳がそう線引きをしているからであって、「矢印はここ」と決めてくれているからです。

その部分が壊れてしまえば、目に入るもの、考えていることも全部、脳の「中」にあるわけですから、自分の「中」にあるのと同じです。

区別はつきません。世界と自分の境目がなくなっている状態です。」

と書かれています。

これはまさに自他一如の世界であります。

こんな話を読んでいると、すぐに思い当たったのは、黄檗禅師の言葉であります。

ここでは、この自他一如の世界を「心」と言っています。

筑摩書房『禅の語録8伝心法要 宛陵録』にある入矢義高先生の現代語訳を引用します。

「師は裴休に言われた

あらゆる仏と、一切の人間とは、ただこの一心にほかならぬ。

そのほかのなんらかのものは全くない。

この心というものは、初めなき永劫の昔よりこのかた、生じることもなく、滅ぶこともなく、形体もなければ、相貌もなく、有るとも無いとも枠づけできず、新しいとも古いとも定められず、長くもなく短くもなく、大きくもなく小さくもなく、どのような計量と表現のしかたを越えてあり、どのような跡づけかたと相対的な接近法からも遠く離れてあり、つまりは、そのものそのままがそれであって、それについての思念が働いたとたんに的をはずすことになる。

それはちょうど涯もなくて測りようもない虚空のようなものだ。

ほかでもないこの心こそが実は仏にほかならぬ。

仏と人間とは、だからなんら異なるところはないのだ。」

というのです。

心というのは「形体もなければ、相貌もなく、有るとも無いとも枠づけでき」ないのです。

まさに自他一如の世界なのです。

しかし、そのあと次のように書かれています。

「ところが、すベて人間というものは、姿かたちにとらわれて、おのれの外に仏を求めようとする。

求めれば求めるほど、それは見失われるばかりだ。」

というのです。

仏道の修行ですから、仏になることを求めます。

そうすると、今の自分は仏ではない、仏とははるか彼方にあるように思ってしまいます。

仏というのを理想の自分と置き換えてみてもよろしいでしょう。

今の自分はまだ理想ではない、理想の自分ははるかかなたにあると思い込んでしまっているのです。

まさにこれが「自分の壁」といってもいいでしょう。

壁は自分で作ってしまっています。

更に黄檗禅師は、

「どんな風に、自分の設定した仏のイメージでもって仏を求め、おのが妄執の心でもって本源の心をとらえようとしては、永劫の果てまで、おのが身を粉にして空に帰するまで努力しても、結局それをつかむことはできぬ。

ところが、一切の思慮をやめ、思念をなくしてしまえば、仏はちゃんと目の前に現われてくれるものなのだ。

この心がそのまま仏なのであり、仏がそのまま人間なのである。

人間であるからといって、この心が痩せてあるわけではなく、仏であるからといって、この心が肥えてあるわけではない。

さらに言えば、六種のハラミッの行をはじめとするあらゆる行の数限りない功徳も、もともとこの心に具わっているのであり、それらを新たに付け加える必要はない。」

というのであります。

また「この心というものは、ちょうど虚空のように澄明で、一片の姿形もない。

しかしそこに思念の働きが生じたとたん、すでに本体からずれてしまい、つまり相に執われることになる。」とも説かれています。

こころには本来壁はありません。

ただ頭のはたらきによって、壁を作ってしまっているのです。

 
横田南嶺

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