なにかしら
第二日曜日は、毎月管長がつとめていますが、第四日曜日は、円覚寺派のいろんな和尚様が担当してくださっています。
その日は黄梅院のご住職であり、居士林の師家でもある内田一道老師のご法話でありました。
御老師の法話でもあるし、拝聴しようと思ったのでした。
内田老師は、はじめに今年は仏暦二五六八年と紹介してくださいました。
仏暦というのはお釈迦様がお亡くなりになってから何年かというものです。
それから昭和百年でもあります。
内田老師は、昭和五十年のお生まれだというので、百年のちょうど半分を生きてこられていることになります。
内田老師は、はじめの方で私が聞きに来ている姿に気づかれて、どうも話しにくそうでありました。
申し訳ないことをしたかと反省しました。
しかし、そのあとは流暢に丁寧にお話くださいました。
謙虚でお心のこもったお話は胸打つものがあります。
その日はちょうど新しい居士林で、内田老師の主催する宿泊坐禅会の方々も三十名ほどご参加くださっていたようでした。
御老師について修行される方も増えているようで何よりであります。
内田老師には、青い蓮と書いて「青蓮室」と名付けて、居士林の師家として、一般在家の方のご指導をすべてお任せしています。
その日は、ブッダの言葉を十一ほどご用意されてお話くださいました。
御老師は常に座右の書としてブッダの言葉を身近に置いていて、何度も何度も、食事をする時にも、何をする時にも、なるべくそれを見ながら過ごされているそうなのです。
そうしてお釈迦様の言葉を繰り返し、繰り返し身につけるだけなのだと仰せになっていました。
この繰り返し繰り返し身につけてゆくということが今回のお話の中核であると感じました。
そうしていると、同じ言葉でも十年前に見たのと、十年後に見たのと、一層深みが出てくるというのであります。
はじめに紹介されたのは、
「目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。」というスッタニパータにある有名な言葉であります。
御老師は、仏教の教えというのは、特定の宗教を信じればその信じた人が幸せになるというのではなくて、すべてのものの幸せに願う宗教なのだと仰せになっていました。
ここが大事だというのです。
それから二番目に紹介されたのは、
「寒さと暑さ、飢えと渇き、暴風と猛暑、そして、虻と蛇、これらの一切に打ち勝って、犀の角のように、独り歩め。」
という言葉です。
御老師は、学生の頃インドを旅行されて、そのときのガイドブックの一番最初のページに載っていたのがこの言葉なのだと仰っていました。
厳しい環境の中では寒さや暑さというのも直に感じますし、飢えや渇きもあります。
暑さや雨や飢えや渇きの中で、心がどうしても落ち込んでしまうような時に、ちらっとめくったこのページに、この言葉があって、救われる思いがして、そして更に力強く励まされたというのです。
三番目には
「スバッタよ。わたしは二九歳で何かしら善を求めて出家した。スバッタよ。わたしは出家してから五〇年余となった。正理と法の領域のみを歩んで来た。これ以外に道の人は存在しない。」というブッダ最期の言葉を紹介してくださいました。
御老師は、ブッダの言葉には無駄な言葉はないと仰せになっていました。
この言葉でも、「なにかしら善を求めて」というところに注目されていました。
私などは読み過ごしてしまうところであります。
何かしらの善というのは、はっきりした善とか絶対的な善とかではないんだと仰せになっていました。
仏教では絶対的な正義、絶対的な善というのを否定するのだというのです。
今、世界情勢を見ても絶対的なものがあると信じてしまって、それ争いのもとになっていると指摘されていました。
良い悪いというのも時と状況によって変わってくるのです。
そこで何が善で何があるかというのを、その時その時に学んでいかなくてはならないと仰って、その学ぶこと、修行して心を清めて静かにして、その時々の状況判断をしていくことが大事だとお話くださっていました。
そこでこの「何かしら」というのは、とても重要なことなのかなと思われるというのでありました。
なるほど深い洞察であります。
その次に紹介されたのは、
「『愛しく気に入っているすべての人々とも、やがては、生別し、死別し、(死後には生存の場を)異にするに至る』と。アーナンダよ。生じ、生存し、つくられ、壊滅する性質のものが、(実は)壊滅しないように、ということが、この世でどうして有り得ようか?このような道理は存在しない。」
という言葉であり、
更に「およそ何であれ、生ずる性質のものは滅する性質のものである」という言葉でした。
そして「さあ、今、比丘たちよ、わたしは告げる。『滅する性質のものは、諸々の事象なのである、怠ることなく修行しなさい』」
というブッダ最期の言葉を紹介されていました。
「生ずる性質のものは滅する性質のもの」「滅する性質のものは、諸々の事象なのである」と受け入れた上で、一歩進んでいくというのです。
これはなかなか今日明日できることでは決してなく、やはり普段からこういう言葉を学び続けることが大事であり、学び続けた上でも、実際に大事な人との別れでは悲しみ苦しむものだというです。
御老師も八年前に父を亡くした時の話に触れられて、いくらこの言葉を頭で理解していても、実際に自分の目の前に具体的な出来事が起こったら、やはり悲しみ苦しむものだと仰せになっていました。
それでも、まるっきりこういう言葉を学ばないでその事態を迎えるのと、この言葉を少しでも学んでいるのとは違うというので、
このような言葉を、何度も何度も繰り返し身につけるようにしていると、実際に辛い事態に遭っても変わってくると思うのだと仰せになっていました。
実際にそういう事態になると、やはり嘆き悲しむのは当たり前であり、嘆き悲しんだ上で、またこういう言葉に戻ってきて、何度も何度も繰り返して学ぶうちに、心は少しずつ成長してくるのだとお説きになっていました。
それから「アーナンダよ。わたしはもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。たとえば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いて行くように、恐らくわたしの身体も革紐の助けによってもっているのだ。しかし・・・」という言葉を取り上げていらっしゃいました。
ブッダは八十歳の長生きでありました。
ここに「革紐の助け」というのは今で言えば杖や車椅子に当たるのではないかと仰っていました。
しかしのあとに肉体は老いても心は怠ることなく修行すれば平安な状態でいられると続くのです。
そこで御老師は自分の心をいかに磨き上げていくのかということが大事だと説いてくださっていました。
そのあと
「古いものを捨てて他のものに依り、揺れ動く欲望にしたがう者たちは、執着を超えることがありません。かれらは取っては捨てます。あたかも猿が枝をつかんで放すように。」
「人々はわがものと執着したものに対して悲しむのです。なぜなら、所有したものは永遠ではないからです。これはただ別離していっているだけであると見て、家にとどまってはなりません。」
「無一物にして無執着であること、これが他のものが(存在すべくも)ない、(あるがままのこのものとしての)洲です。それは、涅槃であり、老と死の滅尽である、と私は説きます。」
と続いて、最後に
「比丘は、気づきをもち、よく解脱した心をもって、これらのことがらに対する欲を制御しなさい。時にしたがって正しい法をよく考察して、かれは専一となって闇を打ちなさい」という言葉を紹介してくださっていました。
御老師はこの中で大事なのは「気づき」だと強調されていました。
ブッダの瞑想方法に触れて、まず内側を観察して、内側を調え内なる調和をしてから、その後は内なる調和で終わるのではなく、外側へ意識を向け、外との関係性を調和し、最後は、内と外両方を調えるように説かれていると指摘されました。
それが瞑想の時の半眼だというのです。
目つぶってしまえば内側にだけで止まってしまいます。
半眼だと内と外と両方を隔てなく気づきの意識を広げることができて、穏やかに生きていくことができるというのであります・
御老師のお話をメモをとりながら拝聴させていただきました。
ご自身の体験をもとに語っておられるので、そのお言葉は力強く説得力がありました。
私には気づかなかったことも学ぶことができました。
こうしてまとめて書いてみると一層勉強になるものです。
横田南嶺