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臨済宗大本山 円覚寺

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2025.08.15
今日の言葉

戦争を知らない

本日は八月十五日であります。

終戦記念日であります。

またお盆でもあります。

「『戦争を知らない子供たち」という歌が流行った頃がありました。

この歌は前の大阪万博、1970年に発表された歌です。

「戦争が終わって 僕等は生れた 戦争を知らずに 僕等は育った おとなになって 歩き始める 平和の歌を くちずさみながら」という歌詞でした。

この当時の若者は戦後生まれで、直接戦争を経験していませんでした。

しかし、両親や学校の先生、社会全体は戦争の記憶を強く抱えていました。

そんな人たちは、それぞれ平和の尊さと戦争の悲惨さを語り継いでいました。

若者たちはその話を聞きながら、「自分たちは何も知らずに平和に生きている」という意識を持つことになります。

私もまだ子供の頃、この歌を聴きながら、何か心に負い目を感じていたものです。

戦争を知らずに育ったものですから、「戦争を知らない子供たち」が、戦争を経験した世代を前にして、どこか負い目を感じている気がしました。

自分たちが今享受している平和は、先人達のご苦労の上に成り立っています。

しかし、その重みを「体験して」知っているわけではないのです。

そのため、心の奥に「申し訳なさ」や「自分たちは甘やかされているのでは」という感情がありました。

こうした心情は、直接的に罪悪感というほどではありませんが、歴史の重みに対する謙虚さや申し訳なさとして表れていました。

私などは、昭和三十九年の生まれですので、戦争からもう十九年も経って生まれたのでした。

それでもまだ幼い頃には、生家のすぐそばに防空壕が残っていました。

廃墟となった屋敷跡に残っていたのでした。

あそこには入ってはいけないと親から言われていましたが、入るなと言われると入りたくなるもので、暗い防空壕に入って、こんな中で空襲に耐えていたのだと思うと、なんとも言えぬ心地がしたものでした。

それからある時に父から聞いた話も忘れられません。

父は終戦の年には、まだ九歳でありましたので、小学生の頃であります。

友達の家に遊びに行っていて、そこで空襲警報がなりました。

父は急いで自宅に帰ろうとしました。

しかしもう警報が鳴っているので、一緒に防空壕に入ろうと薦められたそうです。

その方が賢明な判断でありましょう。

家に帰るまでに空襲にあう可能性はじゅうぶんにあります。

ところが、どういうわけか父は、その友人の家の方の薦めを断って、家に向かって走って帰ったというのです。

ずいぶん危険なことだと思います。

しかしながら、その友人たちが入っていた防空壕に爆弾が直撃して、友人をはじめその中にいた人は亡くなってしまったというのです。

もしその友人の薦めに従って防空壕に入っていたら、自分も生きてはいなかったと言われたのでした。

これには驚きでありました。

父がもしそこで亡くなっていたら、この自分もここにはいないのです。

空襲があったということが、遠い話ではなく、自分自身の命に関わることなのだと実感したのでした。

この話を聞いた時の背筋が凍るような衝撃は今も忘れられません。

私の生まれ育った新宮市は、紀伊半島の先端にある小さな町であります。

それでも空襲があったのです。

そして祖母から艦砲射撃を受けて山に登って避難したのだと聞かされていました。

聞いた時には、なぜこんな小さな町に艦砲射撃があったのか不思議に思いました。

しかし、これは事実であります。

昭和二十年の七月ですから戦争の末期です。

市内にある製材工場がアメリカの潜水艦から艦砲射撃を受けて燃えているのです。

日本は戦争をしていたのだということを、子供の頃には身近に感じたものです。

大きな神社や人の集まるところでは、まだ傷痍軍人さんの姿も見かけたものでした。

白い服を着て、路上に坐っておられました。

傷痍軍人さんの前を通るときも、何か申し訳ないような気持ちを感じたものです。

今自分たちは何不自由なく生活させてもらっているけれども、この方々が戦地でご苦労されたおかげなのだと思いながら、複雑な思いをしたものです。

横井庄一さんや小野田寛郎さんが日本に帰ってこられたという話もまた衝撃でありました。

横井さんは昭和十九年にグアム島に派遣され、そのグアム派遣から約二八年後の一九七二年(昭和四七年)一月に発見され、確保されました。

そしてその年の二月に満五七歳で日本に帰還したのでした。

二十八年間に及ぶジャングル生活が終わったという報道でした。

「恥ずかしながら帰って参りました」という言葉は衝撃でありました。

それから、小野田さんが日本に帰ってきたのはその二年後であります。

一九七四年に日本に帰ってみえたのです。

実に約三十年にわたって、フィリピンのルバング島で戦っておられたのでした。

小野田さんが発見されて日本へ帰還するように呼びかけても上官の命令がないと帰れないと言われたのでした。

そして、小野田さんの元上官であった方がルバング島に行って、任務解除命令を伝えたのでした。

私はその頃小学生でありました。

戦争などすっかり忘れた日常を送っていながら、まだ戦っていた人がいるのだ、戦争はまだ終わっていなかったのだと驚いたのでありました。

その戦争が終わって八十年も経つと、すっかり変わりました。
明治大正の生まれの方は国民全体の二%に過ぎません。

戦後生まれは全体の八十八%になりました。

もう九割近くは戦争を知らずに生まれて育っているのです。

負い目や申し訳なさもこれほどまでの大勢になってくると自然と薄らぐものであります。

数年前に、ある三十代の青年と話をしていて、この小野田さんのことなど全く知らないというので驚いたことがありました。

小野田さんは二〇一四年に九十一歳でお亡くなりになっています。

このように直接戦争を体験された方は極めて少なくなっています。

戦争を知らないという負い目は薄らぎました。

直接経験した人の声を聞くことができなくなると、もう私たちは文字や映像でしか戦争について知ることができなくなります。

戦争は完全に歴史の一ページになってゆくのだと思います。

平和への願いをどのようにして受け継いでゆくか、私たち戦争を知らない者に大きな課題が与えられていると思います。

 
横田南嶺

戦争を知らない

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