嫌うものなし
臨済禅師の「嫌う底の法なし」という言葉を取り上げてくださいました。
また琢玄宗璋禅師の揮毫された「臨済云く、嫌う底の法勿し」という墨蹟を掲げてくださいました。
これが実に迫力のある墨蹟であります。
「嫌う底の法なし」は『臨済録』に三回出てくる言葉です。
政道老師は、修行時代にこの言葉にであってとても感銘を受けたそうなのです。
講義の前の坐禅の指導でも、呼吸をありのままに受け入れるということを丁寧に説いてくださっていました。
坐禅している時に身体に現れてくる呼吸をただあるがままに受け入れるのです。
そのあるがままに受け入れるのを、あらゆる対象にまで広げてゆくのであります。
寄せては返す波を見つめているように、ただ出入りの呼吸をあるがままに見つめていると、智慧のまなざしが育ってくるのだと説いてくださいました。
人間のはからいの及ばない仏のまなざしが智慧であります。
私たちは自分がきげんよくいられるように、自分の都合のいい概念の世界を作り上げています。
この概念の世界が崩れて本来の智慧のまなざしが露わになるのです。
政道老師は、「嫌う底の法なし」という言葉が、この智慧のまなざしをよく言い当てていると仰っていました。
まず嫌う底の法なしの「法」とは何かを解説してくださいました。
法とは梵語のダルマです。
それには大きく分けて二つの意味があると示してくださいました。
一つは真理や教えという意味です。
もう一つは現象、事象、対象、存在です。
心の対象となるものです。
智慧のまなざしには、対象に偏見がないのです。
そんな智慧のまなざしを私たちは一人一人持っているのです。
好き嫌いがなく、鏡にものが映るように、あらゆるものをあるがままに受け入れることができるのです。
そういう智慧のまなざしをお互いは本来持っているのです。
そこで政道老師は、この春に修行道場に入門した修行僧の話をなされました。
このお話が私には最も印象に残りました。
円福寺の修行道場は昔から蚊が多いことで知られています。
そんな話をよく耳にしたものです。
この七月の摂心でも蚊がたくさん出ていたそうです。
この春新しく入った修行僧の一人が、夏は暑くて汗が気持ち悪く、呼吸に集中できないといい、また更に蚊が多いので、もう呼吸どころではないと、老師に訴えたそうです。
そんな話を聴きながら、私も修行を始めた頃を思い出しました。
中学生の頃坐禅に行った興国寺も蚊が多くて、坐禅しているとその印を結んでいる手に一杯蚊が止まっていたことを思い出しました。
夏の坐禅は蚊にさされるものだと私など早くからあきらめてきました。
そんな修行僧に政道老師は、「お互い多くの皆さんのお布施をいただいて修行させてもらっているのだから、あなたも蚊にお布施をしてあげなさい」と言われるそうです。
蚊に施してあげると思えば、気にならないものです。
私もそんな話をすることがあります。
蚊がたいへんだといっても実際に一匹の蚊が吸う血の量はたいしたことはないのです。
それで貧血になったりすることはありません。
私などはそのように蚊に刺されるものとあきらめて、施してあげる気持ちで、あとはただ無の一字になりきってかゆいというような感覚を消し去るようにしてきました。
そうして刺され続けているとなれてしまうのです。
今では刺されてもかゆくもならず、赤くもなりません。
ああ蚊が止まったとかすかに感覚があるだけです。
しかし慣れないうちは深刻な悩みでもあります。
そこで政道老師は、その修行僧に独特のご指導をなされました。
蚊が飛んでくると、あの羽の音で分かります。
それだけで嫌な思いになるものです。
老師は、その音に反応して自分の心がどのように変わるかを観察するように指導されました。
そして蚊に刺されたあとがどうなるかも細やかに見つめるのです。
そのかゆみなどの反応に対して心がどのようにはたらくのかを観るのです。
呼吸を見つめるのと同じように蚊の音、それに反応する心のはたらき、蚊に刺された感覚、それに対する心のはたらきをあるがままにみつめるのです。
これは飛んでくる蚊も法としてとらえていますし、蚊に対する自分の心の反応も法としてとらえているのです。
坐禅ができない、だめだという心のはたらきも法として観るのです。
私たちは普段心地よい感覚、不快な感覚に流されてしまっています。
その心地よいや不快という感覚もまた法として観るのです。
一切を法としてただあるがままに観るのです。
これこそが智慧のまなざしであります。
そうしますと嫌う底の法なしなのです。
その修行僧もそのように観ることによって坐禅がとても深まったとお話になっていました。
みるみる坐禅が深まっていって、充実した坐禅になったというのです。
これはまた素晴らしいご指導だと感服しました。
私などはただ蚊など気にせず、蚊に血を施してあげるつもりでただ無になって坐れとしか教えていません。
こういう深い観察を養っていくので禅定から智慧に繋がるのだと思いました。
蚊を通して、いらいらするとか、嫌になるという自分の心のはたらきを法としてみつめるのです。
そうするとガラッと変わるのだというのです。
それが人間本来もっている智慧のまなざしなのです。
そうしますと蚊だけではなく、日常の嫌な人会いたくない人に接しても、あらゆる心のはたらきを法として観るのです。
そういう新しい見方、智慧のまなざしを育てていくというのです。
智慧のまなざしには嫌うべき法がありません。
偏見がないからです。
智慧のまなざしは対象を比べません。
私たちが苦しむのは比べるからなのです。
たとえ聖なるものを求めるということでも、、聖なるものを求めた瞬間に、この場所が俗に充ちたものとなってしまいます。
聖なるものがどこかにあるように思うのも概念の世界です。
現実を離れた概念にとらわれてしまってはなりません。
嫌うものがなくなると、そこには満ち足りた世界があります。
智慧のまなざしでみると、白隠禅師が「当処即ち蓮華国」と詠われたように、ここが心から満ち足りた世界であったことに気がつくのです。
政道老師の懇切丁寧で熱意あふれるご講話には学ぶことがたくさんありました。
横田南嶺