政道老師のご指導
その日は、老師のご講義を拝聴するためだけに、大学に行ったのでした。
京都の暑さは格別と聞いてはいましたが、新幹線から山陰線に乗り換えて、円町で降りて、円町から大学まで歩くとすでに汗をかいていました。
総長室に着くとしばし汗が止まらないというほどでありました。
まだ九時半頃でもそんな暑さでありました。
政道老師のお話を拝聴するためだけの予定でしたが、ちょうど自由学園の学園長が大学にお越しになっているというので、ご挨拶させてもらいました。
自由学園というのは、1921年(大正10年)に、ジャーナリストであった羽仁もと子・吉一夫妻により創立されています。
学生の多くが学園内の寮で生活しているとのことです。
授業のチャイムは、禅堂の開板の音になっているとうかがいました。
独自の教育方法で、学生による稲作、田植えや収穫など、酪農なども行っているそうなのです。
また最近はお醤油もお作りになっているとうかがいました。
自由学園の学園長も禅に関心が強く、その日の朝早くから花園禅塾で、塾生達と朝のお勤めや坐禅を体験されたそうです。
しばし懇談させていただいて、一緒に政道老師のご講義を拝聴したのでした。
政道老師には、私も担当させてもらっている「禅とこころ」という授業で講義をしてもらっています。
この講義では授業の始まりに、みんなで般若心経を唱和して、それから五分ほどのイス坐禅を行っています。
政道老師が焼香されて、般若心経が始まり、唱和させてもらいました。
そのあとのイス坐禅のご指導が実に懇切丁寧で深く感銘を受けました。
私などは、いつも簡単に腰を立てて呼吸を見つめましょうとしか申し上げていません。
これは反省させられました。
政道老師は、まず足で床をしっかり踏んでいることを確かめてくださいと仰いました。
それから腰を立てまっすぐに坐るように指示されました。
まっすぐに直立していながら、しかもリラックスするように教えてくれました。
まっすぐでリラックスしているというのは、具体的には肩がリラックスしている状態です。
直立していてしかもリラックスするというのは一見矛盾しているようにみえます。
しかし、この二つが大切なのだと教えてくださいました。
リラックスだけでは、だらけてしまいます。
直立だけでは力んでしまって、深い坐禅にはなりません。
緊張と弛緩がほどよく調和することかと思って拝聴していました。
そのあと政道老師はお尻から息を吸い込むように仰せになりました。
お尻から息をすって頭のてっぺんまで吸い込むのだというのです。
更には手足の指先までしっかり吸い込むということでした。
この身体で呼吸していることを感じるのです。
呼吸を感じるというのが難しいという人のために政道老師は、浜辺で波を見つめるようにしなさいと教えてくださいました。
波打ち際で寄せては返す波を見つめるように呼吸を見るのです。
このように呼吸を静かに見つめていると何が起きるのか、政道老師は智慧のまなざしが育ってくるのだと仰いました。
人間のはからいの及ばない仏のまなざしを智慧というのだと教えてくださいました。
我々凡夫の心は呼吸を見つめていても、すぐに呼吸に興味がなくなって他のことを考えてしまいます。
授業のあとにお昼ご飯を何にしようかとか、あるいは過去のことを思い出したりしてしまいます。
今の一呼吸に心が向かないのです。
凡夫の心は落ち着きがないのです。
意馬心猿と古人が言った通りです。
それは概念の世界、虚妄の世界をさまよっているようなものです。
現実の世界をみつめずになぜ概念の世界を求めるのか、政道老師は、それはいつもきげんよくいたいからだと仰せになりました。
いつも自分がきげんよくいられる世界を自分で作り出すのです。
実際にはすべては変化し続け思うようにはいかないのですが、虚妄の世界をつくりだしてはきげんよくいようとしているのです。
概念の世界が崩れると、本来の智慧のまなざしが露わになるのですが、お互いは本来素晴らしい智慧のまなざしをもっていることを信じていないのです。
これが一番の問題だと政道老師は指摘されました。
一呼吸一呼吸が一期一会なのだというお言葉も心に残りました。
その一呼吸、生涯で初めての呼吸であり、もう二度とないものなのです。
その一呼吸一呼吸を丁寧に味わうようにと何度も説いてくださいました。
そして実際に二つの呼吸法を実践しました。
はじめは四,四,八呼吸法といって、·4つで息を吸い、4つ息を止めて、8つでゆつくり吐いていくのです。
これを政道老師が数字を数えて号令をかけながら、皆で行いました。
それだけで呼吸が調ってきます。
そのあとは随息観といって、自然な呼吸を心がけて、呼吸の出入に自分が随っていくようにしました。
これも一息ひと息を丁寧に味わっていくのです。
長い呼吸が来たらそのままを受け入れますし、短い呼吸が来たらそのままを受け入れるのです。
分别をしない呼吸に対して一切計らわないというのです。
これは、ありのままを受け入れることなのです。
そのあとのご講義は、「嫌う底の法なしー智慧のまなざし」と題してお話くださいました。
琢玄宗璋という方の墨蹟をかけてお話くださいました。
これがまた実に迫力のある見事な墨蹟であります。
こういう一幅をかけるだけで、その場の雰囲気が変わります。
嫌う底の法なしは、このありのままを受け入れることにほかなりません。
呼吸の話と連動しているようでした。
内容についてはまた次回紹介します。
まずは坐禅のご指導からも深く学ぶものがありました。
横田南嶺